『新潮45』八月号に、中村晃子(てるこ)「私は谷崎潤一郎の孫かもしれない」が載っている。著者は江尻雄次の妻須賀の孫である。
大正元年、汽車恐怖症のため大変な思いをして東京へ帰ってきた谷崎は、母の姉の持つ旅館真鶴館に滞在したが、そこの主で従兄の江尻雄次の妻須賀と、不義密通の関係に陥ったらしく、その後江尻とは絶交し、須賀は離縁されている。この文によると、須賀は大正三年三月に三女美恵子を生んでおり、それが著者の母であり、谷崎の子ではないかという話だ。著者は1944年生まれ、中央青山監査法人職員だった。
大正三年の谷崎の動静はかなり不明で、どこにいたかもよく分からないが、晃子の資料をつきあわせると、須賀との結婚を考えており、だが須賀の父で、堀内寿太郎という実業家が許さず、谷崎と須賀は心中しようとしたのではないか、という。谷崎と須賀は、一時小田原に隠れ住んでいたのではないかともいう。当時、北原白秋が姦通罪で下獄しており、谷崎もその恐怖に怯えていた。晃子自身も幼いころ、谷崎と縁続きだと言われたりしたという。晃子は一時十代市川高麗蔵の下で働いていたという。
従来、谷崎の実子は、最初の妻千代が生んだ鮎子だけだとされていた。のち根津松子が女児を生んだ時、恵美子と名づけたのは谷崎だったような。
『新潮45』は、二年に一度くらい、昔の文豪についての資料的な文章を載せる。
(小谷野敦)