凍雲篩雪(65)車谷長吉 79
一、今では、昔のような「文藝評論」はあまり見なくなったが、その文藝評論には、論じている作品からの「引用」があり、これこれこのように、と説明されたり論じられたりした。それはしばしば礼賛のための引用であり、文庫の解説などでもしばしば行われる。
しかし、こういう「引用」は、しょせんサンプルでしかなく、作品の断片でしかない。読者は本来、自ら作品全体に当たるべきだし、あるいは読者がすでに読んでいるという前提で引用されている。
私も引用することはあるが、しばしばそれは、その作品がどういう文体で書かれているかを示すためのものだ。文学の論文などで、同時代の他の論者の文が引用されるのなど見ていると、いったいここでこれを引用する必要があるのか、著者が自分の言葉で言えばいいだけではないのかと思うことがある。つまりは、自分より偉い人の文を引いての権威づけである。ないしは、引用は枚数稼ぎにも使えて、あまり言うことがない場合には便利である。
引用とはしょせんその程度のものなのだが、文藝評論家の中には、この引用だけでもこの文学者のすごさが分かる、といったこけおどしをする人がいて、その影響でか、引用を大したものだと思う人がいるらしい。先ごろ上梓した『芥川賞の偏差値』(二見書房)でも時々引用はしたが、しょせん引用は引用である。それに対して、もっとたくさん引用してどこがいいのか、悪いのか示してほしいと言う人がいた。だが、作品のよしあしは、引用では伝えきることはできない。よさももちろんだが、全体に退屈だという作品の場合、引用では何も伝わらないに等しいだろう。
つまり引用というのは便宜的なものに過ぎないのだが、文藝評論家の姿勢によって、その意義を過大にとらえている人がいるということが分かった。
二、高橋順子の『夫・車谷長吉』(文藝春秋)を読んだが、まことに難物であった。車谷は、大江健三郎以後の日本の作家では随一だと私は考えているが、代表作とされがちな直木賞受賞作『赤目四十八瀧心中未遂』は、作りものでもあり、あまり良くない。かといって、三島由紀夫賞と芸術選奨をとった『鹽壺の匙』も、まだ練れていないところがある。車谷でいいのは、『漂流物』『忌中』などに収められた短編であろう。
だが、車谷は私小説作家とされており、筆禍事件も起こしている。車谷は、人は本当のことを書かれると怒るのだと書いており、本当のことを書いたのならいいのだが、私の考えでは、私小説は自分自身の恥ずべき行いをまずもって描くべきもので、車谷は必ずしもそうではなかった。私が「抜髪」を高く評価するのは、母親の口を藉りてのことながら、作家として認められていい気になっている自分自身を批判しているからだ。いろいろ疑問なのは、車谷は飛行機に乗れないということになっているのに、ドイツから招かれて行く気満々でいたところ、話がなしになったという、『四国八十八か所感情巡礼』にも書いてある話で、この当時は飛行機は禁煙だったはずで、本当に車谷が行く気でいたのかどうか、疑わしい。シベリア鉄道も全面禁煙だから乗れないと書いてあるのに。どういうことなのか、高橋に説明してもらいたかった。
私はもちろん車谷と面識はないが、面識があった坪内祐三や佐久間文子の文章を見ると、どうも事実をゆがめてとらえる人だったらしいから、私小説にもそれが反映したのではないかとも思えるが、細かなことが分からない。中でも分からないのは齋藤慎爾から名誉棄損で提訴された件で、「刑務所の裏」という作品で齋藤との金銭トラブルを描いたのだが、結局和解して「密告(たれこみ)」と改題して人物と会社名を変名にして作品集に載せている。そして車谷は「凡庸な私小説作家廃業宣言」を書いて、他人についてデタラメを書いたので廃業すると言ったのだが、高橋著を読むと、証人を探したとあり、デタラメを書いたとは思われないのである。裁判所の和解というのは、秘密条項がつくことが多く、和解の内容について口外してはならないことになっている。だが車谷は本人だからこれに拘束されるとして、高橋は別に口外してもいいのかもしれないが、そうするとまた齋藤から訴えられたりするのだろうか。しかしデタラメを書いたのでないとしたら「宣言」のほうでウソを書いたことになり、しかしおそらくこの文章を書くことが和解条件のうちに入っていたのではないかと思う。私小説にとって重要なことなので、齋藤はぜひ真実を語ってもらいたい。
ところで車谷の政治思想というのが、これまたよく分からない。ピースボートの世界一周などに参加しているところを見ると、戦後民主主義だったのかとも思うし、西郷隆盛は侵略主義者だと言って鹿児島の人と喧嘩になったともある。しかるに「平成」を使うし、近代が諸悪の根源だと言ったりするから、徳川時代なら自分は地主の長男であったとか思っているのではないかとも思う。高橋著が、そういうことは書いてくれなかったのが私には憾みである。
三、中央公論新社の『谷崎潤一郎全集』が完結したが、残念なことに、「鴨東綺譚」は入っておらず、またしても「幻の作品」になってしまった。新潮社から出る『大江健三郎全小説』に、やはり幻の作品だった「政治少年死す」が入るそうだから、対照的な事態である(しかしこの「全小説」には『青年の汚名』と『夜よゆるやかに歩め』が入っていない。後者は『婦人公論』に連載された通俗小説だから封印されてきたものだが、前者はなぜだろう)。
「鴨東綺譚」は、昭和三十一年に『週刊新潮』の創刊号から連載された小説で、谷崎が戦後十年の京都住まいを総決算し、京都で知った市田ヤエという元画家夫人だった人をモデルにしたもので、ヤエが谷崎にそれまでの恋愛遍歴を語り、小説にしてくれと頼んだものだ。ところが実際に連載が始まるとヤエは激しい不満をもって谷崎に抗議し、愛人を連れて熱海へ乗り込んで、谷崎の弟子の今東光とあわや立ち回り、新潮社にも忍び込んでゲラを盗もうとしたなどのことがあり、六回で中絶した。ヤエは橋本関雪の娘の高折妙子とも親しく、この小説の後半ではもう一人の女主人公として、妙子をモデルとした女が出るはずだった。妙子の娘が、谷崎の妻松子の子の渡辺清治に嫁いだ千萬子である。その後もヤエの脅迫は続き、千萬子が生んだたおりが狙われるのではないかと谷崎が懸念している手紙もある。
そのため、谷崎没後二度出た全集にも「鴨東綺譚」は入らなかったのだが、ヤエが死んだため今度は入ると聞いていた。だが遺族の抗議で入らなかったという。自分が話したことを書いただけで怒り狂う頭のおかしい女の遺族の抗議など黙殺して入れるべきだったろうと残念である。書かれた者の不満で言論が停止するなら言論は死に絶える。土師守などが「規制」などと言い始めたが、これなど歴然たる遺族ファシズムによる言論封殺であり、断じて許すべきではない。殺人犯の手記なら、永山則夫から木嶋佳苗まで数多く書かれているのに、『絶歌』だけを問題にするのをおかしいと思わないマスコミもおかしい。