昨日発売の「週刊新潮」で、福田和也氏が私の『谷崎潤一郎伝』をとりあげ、見開き二ページで絶賛してくれている。小谷野は「文壇では毀誉褒貶がありますが--私の云うことではないですね--アカデミズムに基盤をおく著者としては、抜きんでた力をもっていることは、衆目の一致するところでしょう」とあった。
私は福田氏についてはずいぶん厳しいことも言ってきただけに、いいものはいいと認めるその姿勢に率直に感謝したい。文章にもcondescendingなところがない。
谷崎先生は、その晩年の随筆「雪後庵夜話」で、「細雪」の第一回を読んで実にそっけない批判を加えた広津和郎と、数日後に志賀直哉邸で顔をあわせてしまい、志賀と広津が困惑するのを前に「何気ない口調で「広津さん・・・・」と気軽に呼びかけた」と書いている。このことは本にも書いたが、続けて先生は、批判には他日創作をもって答える、としている。
『源氏物語』の現代語訳を出したときも、岡崎義恵が厳しく批判したが、谷崎先生は山田孝雄とともに黙殺の態度をとった。「岡崎氏の論文が口火になつてそれからそれへと花々しい論戦が展開するであらうことを、新聞も世間も待ち構へてゐ、ホラ始まったと手を叩いて面白がる様を想像すると、その方が寧ろ癪であつた。私はその手に乗りたくなかつた。」そして数年後、岡崎から無用の悪意がなかった旨の書簡に接し、「やはりあの場合相手にならず、時が自然に解決してくれるのを待つてよかつた、相手になれば自分もついむかつ腹を立てて云はないでもいい悪口を云ひ、相手の人をも無用に怒らせる結果になると、さう思つたことであつた」。
ただそのあとで先生は、自分があまり悪口を言われずに済んできたのは、自分自身が、褒める価値のないものは黙って捨てておくという態度をとってきたからだ、と書いている。だが伊吹和子氏は、それはおかしい、悪口を言わないから悪く言われないというのは、変だと書いている。ただ実際には谷崎先生は、ここで書いているほど、自作の批評を気にしない人ではなかった。それなりに気にし、「夢の浮橋」に対する臼井吉見の酷評などはずいぶんこたえたようだったと伊吹氏自身が書いている。ここには谷崎先生一流の処世術がすけて見える。
私は今のところ「小説家」ではないから、この流儀を実行するというわけにはいかない。しかしそれこそ、八百長を疑われた双葉山が「馬が相撲取ってんじゃねえ」と言ったごとく、優勝決定戦で北勝海が千代の富士に対して本気を出すわけにはいかない。いま「雪後庵夜話」を読み返して、私は谷崎先生からひとつ啓示を得たと感じている。
改めて、福田氏に感謝する。