福田和也や坪内祐三が言うほど斎藤美奈子がひどいかどうか、新聞の文藝時評だけでは分からない(だいいち朝日をとっていないから毎月読んではいない)のだが、続けて届いた『Scripta』と『ちくま』の連載を読んで、やや迷走しているなあと思った。
『Scripta』のほうは、近頃斎藤がやたら入れあげている小林信彦の『極東セレナーデ』なのだが、私はこの小説を新聞連載時に読んでいて、面白かったのだが、さあこれからどうなる、というところで突然終わってしまったという記憶がある。なんだか不人気の連載漫画が打ち切られるみたいであった。
だからそれが、これからアイドルとしてデビューしようとしたヒロインが、原発のCMに出るのを拒んで引退するという終わりだった、というのも覚えていなかったのだが、ここで斎藤は、今こそと力んでいるわけだ。
しかしそれは、「言論の自由」があったかどうか、という一般論ではなくて、藝能人やマスコミの問題でしかあるまい。かつて、大江健三郎が、のち『世界の若者たち』にまとめられる連載対談をした時、藝能人やスポーツ選手も相手としたのだが、その一人、当時の横綱大鵬は、いやー普通の対談だと思っていて、と言い、大江が硬い話をするのに驚いているのだが、大江が「でも、再軍備なんて言い出して」と言うのへ「それはいかん!」と言ったあとで、「待てよ、そういうのは待てよ…」と考え込み、「人気商売としてつらいところだろう」とコメントがついている。
藝能人やスポーツ選手が、あまり「左翼的」な思想を表明してはいけない、というのは常識である。もちろん「右翼的」でもあれだが、そっちのほうがまだましだ。前田武彦のように、生放送中に、共産党候補の当選を聞いて万歳してしまうのはともかくとして、天皇制反対を表明する藝能人などいやしない。
『ちくま』のほうは私小説論なのだが、斎藤は私を避けて語ろうとするから、いつも苦しそうだ。ここでは、伊集院静が、ナルコレプシーの作家を描いた小説がとりあげられており、それはもちろん色川武大なのだが、小説中にはまったく色川の名は出てこないのに、帯で色川と明かされている、と不思議がってみせている。逆に、帯などでも全然分からないのが、マダム路子の私小説=手記で、これは笹沢左保である。
石原千秋はテクスト論から撤退しつつあるが、実はテクスト論にはインターテクスチュアリティというものがあるから、そこから、作家の伝記的要素もまた別種のテクストである、ということになって、テクスト論は崩壊するのである。私小説において、それを読んだだけでは分からない情報が入れられているから、これはおかしい、日本特有だ、と言ったら、そりゃ『ユリシーズ』だって読めないのである。
あと実は、音楽家とか画家とかも、伝記こみで鑑賞されている例って多いのだよね。ベートーヴェンとかゴッホとか、その最たるものだ。反私小説の尾崎翠が、伝記こみで映画化されているのなんか、皮肉だよね。