中野重治が受けるわけ

 先日、中野重治の「萩のもんかきや」という短編を読んだ。名作とされているらしく、講談社文芸文庫でも表題になっている。ほとんど私小説で、中野が山口県萩へ行って、長州の志士から岸信介佐藤栄作などに思いを馳せていると、店の中で、熱心に何か書いている女の姿が見えた。女は鼻が高く、何を書いているんだろうと思って見ていると、それが、和服に「紋」を描きいれているのだと分かる。それで改めて店の看板を見上げると「もんかきや」とあった、というそれだけのたわいない話だ(なお「他愛ない」は当て字)。
 私があまり感心しない私小説として、冠婚葬祭私小説というのがあるが、この手の「旅私小説」というのもある。志賀直哉の「城の崎にて」などもその一種だろう。これの場合は「もんかきや」という題名で、「何だろう」と思わせておいて、種明かしをするという、題名種明かし小説ともいえる。題名で興味をひく小説はわりとあって、『万延元年のフットボール』がそうだし、『おぱらばん』とか「おどるでく」もそうか。
 だが、特に名作とも思わなかった。しかし読んでこう覚えているところを見ると名作なのかもしれない。
 いったい、中野重治という作家は、妙に尊敬されていて、それがなんでだか私にはちょっと分かりかねるところがある。「村の家」とか「歌のわかれ」とか、転向論では必ず触れられるし、「雨にけぶる品川埠頭」もよく論じられる。中野は概して私小説作家で、私は若いころ『梨の花』『むらぎも』を読んで、悪いとは思わなかったがいいとも思わなかった。数年前に『甲乙丙丁』を読み始めてたちまち挫折した。これは共産党内部のことを書いているから、それを知らないとちんぷんかんぷんなのである。
 思うに、中野と佐多稲子は、左翼だけれど共産党べったりではなく、長生きして、誠実そうで、といったあたりで評価されている気がする。
 中野はおそらく文章が志賀直哉系統で、あのごつごつしたところがいいのだろう。
 だが、『梨の花』など読んでも別に共感しないのは、いじめられっ子という面がまったくないからであろう。だいたい、中勘助の『銀の匙』でも、井上靖の『しろばんば』でも、いじめられていた子供時代を描いた私小説というのはあまりない。売れないからだろう。
 だがだいたい、いじめられっ子だったような男(女は別として)が第一線の作家になるかというとそれは疑問で、私は最近、大江健三郎なんかも、けっこう生きるのが上手な子供だったんだろうと思っている。
 柴田翔が『されどわれらが日々ー』で芥川賞をとったあと、大江と対談しているのだが、二人とも、あれは政治的に読まれ過ぎている、と言っている。しかるに私は、東大生に恋人がいてセックスをしているということにばかり頭が行って、政治のことなんかろくに考えなかったし、第一あれが六全協のあとの話だなんてことすら知らなかったのである。