西村賢太には、冷たくされた。芥川賞をとったころ、あちらの著作が送られてきたので、お礼のハガキを書いたが、返事はなかった。それからこちらの著作も新宿の住所に送るようになったが、ある時期から宛所不明で戻ってくるようになった。王子に住んでいると噂されたがその住所は知らされなかった。数年後に私の著作が出るのと芥川賞の発表に応じて公開対談を申し込んだが断られた。担当編集者がそのことを私に隠したまま別の対談相手と交渉してしまったため、私が怒って(隠していたことを)対談自体なしになった。急死直前の新庄耕との対談でも新庄が私の名前を出したが、敬っているのかねえ、というあしらいだった。没後、敬して遠ざけていたと人から聞いたが、まあ中卒を気にしている賢太としては私に会うのは何か面倒な感じがしたのだろう。坪内祐三や阿部公彦だといいのはなぜかとも思うが、私のいけないのは本心を隠せないところで、本当のことを言えば暴力沙汰にもなる、と思っていたのだろうし、それはそれで正しかったのかもしれない。
遺作となった『雨滴に続く』は毎回『文學界』で読んで、これは代表作になるだろうと感心していたが、最後はきちんと終わらせることはなかった。私小説を書くのにシノプシスを書くというのも不思議な話だが、野間文芸賞は歿後でもとれるから可能性ありだろう。本当はそちらの書評をしたかったのだが、先約があるとのことでこちらで代用する。『誰もいない文学館』は二〇一五年に『小説現代』に連載したエッセイで、賢太お得意の、過去のマイナーな作家を取り上げて寸評を加えるもので、もちろん藤澤清造から始まり、大河内常平とか朝山蜻一とかに及ぶ。私も大正から昭和にかけての文壇事情は割と知っているほうだが、それでも聞いたことのない作家の名前が賢太からはポンポン出てくるので、その方面ではいっぱしの文学史家だったということになり、もし藤澤清造の伝記が本当に書かれていないのだとしたら実にもったいないことをしたと言うほかはない。また賢太が所属していた同人誌『煉瓦』の主催者だった久鬼高治の履歴も、本書で初めて知ることができた(エンペディアに記しておいた)。
もともと賢太の読書遍歴は純文学ではなく、中学生時の横溝正史から始まっていて、怪奇推理小説が好きで、土屋隆夫の『泥の文学碑』で田中英光を知り、そこから私小説へのめり込んでいったものだが、私は横溝の土俗的でおどろおどろしい世界が好きではないし、探偵小説も別に愛してはいないから、賢太としてはその点で私を別人種として警戒していたのかもしれない。もっともここに出てくるのはなまじっかな推理小説好きが聞いたこともないような、アンソロジー類にかろうじて入っているといったマイナー作家である。蓮實重彦がマイナーな映画を称賛する時と同じで、賢太が持ち出すマイナー作家というのは、その文章では面白そうに思えるのだが、実際に読むとゲンナリしてしまうことが多く、ここでも大坪砂男の「天狗」が挙げられているが、私は読んだ時に、こんなくだらないものが代表作なのかと索然としたもので、そういう「本当のこと」を言ってしまうところが賢太としてはダメなんだろう。しかも大坪といえば、和田六郎の本名で、谷崎潤一郎が最初の妻を譲ろうとした相手として有名で、それに佐藤春夫が反対した経緯が、『蓼食ふ虫』の冒頭部分に相当するわけだが、賢太はその件を知らないはずはないのにまったく触れていない。この、谷崎だの川端だのといったメジャー作家(文豪)には意地でも触れるものかという頑固さも、私が遠ざけられた理由だろう。近松秋江ですら、賢太からすればメジャー過ぎるらしい。
賢太は石原慎太郎とは妙に親しく、何度も対談しているが、私は石原にも対談を断られている。そしてまた、芥川賞選考委員として、石原は賢太を推し続けたみたいに言っていたがあれは選評を見れば嘘だと分かるので、石原は実は賢太を大して推してはいなかった。そして石原も作家としては、例外的な『わが人生の時の時』もあるが、ほかは三流以下の作家でしかなく、そのへんが賢太を安心させたのだともいえる。実際には藤澤清造なども、西村賢太よりはるかに質の落ちる作家にほかならず、代表作の『根津権現裏』ですら、本来なら新潮文庫で復刊するほどの作ではない。もっとも現代の現役作家で、谷崎賞などをとっているけれど、まったく面白くない作品というのもあり、それも政治的力学なのだろうが、この本でいえば尾崎一雄という珍しくもメジャーな文化勲章・藝術院会員作家に触れたところで、その政治力に言及している。
あと賢太は初版本とかサイン本とかいうのを集めたり売り払ったりしているが、私は文学は内容が第一と思っているので初版本とか復刻版とかサイン本とかにはまったく関心がない。私には単純に、人それぞれだなとしか思えないが、もしかすると賢太にはそれも腹立ちの種だったのかもしれない。あと賢太は頑なに「平成」を使い、西暦の併記をしなかったから、私などはいちいち西暦換算しないと分からないが、そのあたりは古書業界の慣習なのか、ないし賢太に保守派ぶる身振りがあったのかとも思える。石原と親しかったのとか、「“3.11”なぞと称し、これを自らの問題として向き合うことを、恰も“文学者”たる己れに課せられた使命でもあるかのように心得、バカみたくムキになっている同業者と云うのも、或いは存在することであろう。」(「朧夜」)とか書いているのもそれかと(後者については私もその「国家総動員」的な姿勢を不快に思う)思うが、どうも世間では賢太の政治思想を上下するのはタブー視されているようだが、今後は出てくるだろう。なお『芝公園六角堂前』は私は評価しないが、その文庫版解説を没にされた勝又浩が『季刊文科』に書いた追悼文は事実上の恨み節で、解説を含め、年長者だからこれくらい書いてもいいだろうという傲慢さがにじみ出ていて、賢太としては人選を誤った部類だなと思った。