田久保英夫『海図』

 田久保英夫は、芥川賞選考委員であったが、没後十年、論も伝も出ない。私生児で、ハンサムな人であった。「辻火」は珠玉の短篇である。
 と言いつつ田久保をそんなに読んでいるわけではなく、読売文学賞をとった連作『海図』を読み始めたら、妻のいる男が愛人を作り、その愛人の父親が元海軍軍人で、といった話である。私小説だろうかと思い、講談社文芸文庫川西政明の解説を見たら、この作品の主人公には名前がなく、「私」という代名詞も出てこない前衛的なものだと書かれていた。だが私は、そんなことには一向気づかなかった。名前がないといえば、漱石の猫だが、『坊っちゃん』だって名前はない。『こゝろ』の「私」だってない。
 それでもう一度読み直して、苦笑したのは、「自分」が出てくることである。日本語では、いくら「私」を使わなくても、「自分」で代用できてしまう、というのは、日本語学や文藝学の初歩的知識である。いくら「私」「僕」「おれ」の類を排除しても、「自分」を使ったら別にさほど不自然ではない文章が出来上がるのだ。従って、作品はちっとも「前衛的」にはならない。もし「自分」も使わずに書いたら、それは結構前衛的だったろう。倉橋由美子の「あなた」同様、あほらしい「実験」である、と言わざるをえない。