宮崎あおいと精神分析

 最近、宮崎あおいをよく見る。いやもちろん現物じゃなくて。そしてそのたびに魅かれては、いかんいかん、こんな童顔で鼻ペチャ女のどこがいいのだ、と振り払うのだ。
 勢いがあると人は美しく見える。しかし、20年もたって見ると完全に色あせていたりするもので、先日、烏丸せつ子の若いころの『マノン』を26年ぶりに見た。テレビで放送していたのを大学二年の頃に見て、うわーすげえ、いい、とか思っていたのだが、今見ると、えらくダサい。今の烏丸を知っているせいもあるが。まあ大学二年の童貞だった私は、何かしらこんな感じの女とのあれこれを夢想していたというわけだが、今見るとこれって完全にDQN女の話でしかない。あと津川雅彦が当時まだ40歳だったというのには驚いた。
 そのへんの、学部時代の白っちゃけた感じを表現する方法が見つかれば小説にもなるんだが、という話はともかく、宮崎あおいである。
 なぜ私はかくも、宮崎あおいに魅かれそうになることを嫌がるのだろうか。そこにはもしや「ロリコンだと思われたくない」いな、「自分にロリコンのけがあることを自分自身にも隠したい」という欲望がありはしないだろうか。何しろこのご時世である。
 そう思うと、『ラスト、コーション』を観て、タン・ウェイのロリ顔にやばいものを感じて、むろん筋自体があまりに通俗的だったということはあれ、ついつい低評価を与えてしまうというようなこともある。その割には『卍』の秋桜子はいいんだが…。
 だが思うに「俺は××じゃないけど、××を差別してはいけない」という言明は、差別への第一歩である。だから私たちは懸命に、ロリコンであろうとしなければいけないのだ。

 オタどんに教えられて清田友則『高校生のための精神分析入門』(ちくま新書)を見ているので少しフーコー風にふざけてみました。
 これのあとがきには「二十世紀最大のインチキ学問」という私のことばが引用されて、しかし小谷野敦の反精神分析的な生き方には尊敬の念を覚えている、とあるのだが、いや、精神分析がインチキだと言っていても、生き方が反精神分析的かといえば、そうではない。
 ところで清田氏の経歴はおもしろい。上智大卒、九大修士課程およびインディアナ大学英文学部修士修了、カリフォルニア大学サンディエゴ校博士課程修了とある。よく転々としたものだが、英文学部ってそんな学部がインディアナにあるか? スミエ・ジョーンズ先生のところで、ためらうことなくエロいことを書くよう教えられたのだろうか。博士論文は「小説の終りへ向かって-1887年から1933年」だが、小林多喜二が虐殺されると小説が終わるのであるか、これはマサオ・ミヨシの指導だろう…。
 それはいいのだがこの本の60pに、なぜ生物学は、セックスに伴う罪悪感とか羞恥心とかを研究しないのか、などと書いてあるが、してるでしょ。私の『退屈論』にジャレド・ダイヤモンドの本とかふんだんに引いておいたはずだが…。
 しかし相変わらず精神分析入門書らしいバカバカしいところはあって、「母親とセックスしたいだって、そんなバカな!」とか言う人が現れるのだが、もうこういうのは、精神分析というパッチもんを売る香具師の口上みたいなもんで、今どき二十歳を超えた知識人で、そんな話に驚くやつはいないのである。もう11年くらい前になるが、ヨコタ村上が「本当の欲望は自分では分からない。セラピストによって教えられるのだ」と書いたが、いやいったいどのような思いもかけない欲望を教えてもらえるのか。

 大岡昇平の『現代小説作法』に面白いことが書いてあった。小説のなかで、前とあととのつなぎ、あるいは時間の経過を示すために、特に中身なく書いておく場面を「橋」という。「だれ場」ともいうが、作家が年輪をへてくると、慣れてくるのと原稿料稼ぎのためとで、この橋が不要に長くなる傾向があるというのだ。
 これは1956年の本だが、最近特にこの傾向が強い。昔は吉川英治がやたら長くする傾向があったが、最近では、有名作家がみなこれに陥っているため、編集者も勘違いをして、長く書かせたがる。漫画でもそうで、『デビルマン』なんてわずか五巻だから引き締まった名作になったが、今だったらどんどん引き延ばしてしまうだろう。