文理学部

 「文学部」は「人文学部」の略だとか、文学部なのに文学じゃないのもやっていておかしいとか、いずれも間違いである。
 東大の濫觴は、文科大学と理科大学で、文科大学というのは自然科学以外すべてを含む。その流れをくむのが文学部なので、単にそこから法学部や経済学部が分かれていったと考えるべきである。つまり内務省みたいなものだ。教育学部は、戦後になって文学部教育学科が独立したもの。
 日大や東京女子大文理学部というのがあり、東京教育大の前身は東京文理科大学だが、後者は元東京高等師範学校、つまり教員養成大学だから、今の東京学芸大学のようなもので、これが文科と理科に分かれているのは当然のことである。
 で、文理学部という不思議な名前は、実用でない学問をするところという意味である。日大はほかに医学部、法学部、商学部理工学部、藝術学部などがあるが、藝術学部は実際に藝術作品を作ることを教えるところである。

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すが秀実宮崎哲弥高澤秀次の鼎談が前半の『ニッポンの知識人』(1998)の冒頭で、宮崎が、大衆知識人じゃない知識人なら本を出すなら勁草、みすず、青土社の御三家か、新曜社創文社、河出の御三卿、と言っていて、へえそうなのかと思ったが、よそで聞いたことがない。
 さらに宮崎は、大衆知識人にならないためには、啓蒙書を書かない、新書を書いちゃいけないと、やや諧謔的に言っていて、上野俊哉ちくま新書のオファーを蹴ったそうだ、と言っていた(しかし翌年、毛利嘉孝との共著で出した)。当時私は、しかし白川静丸山眞男宮崎市定も新書は書いているが、なるほど柄谷や蓮實、吉本隆明浅田彰は書いてないなあと思った。だがそれから15年、柄谷は新書を出すようになり、吉本も晩年は出していた。上野千鶴子はもともとがカッパブックスだが、今や普通に嘘つき新書を出す。蓮實先生も山内との共著がある。