歴史に学ぶ

 第二次大戦で、枢軸国側につくかと思われたイスパニアの独裁者・フランコは、英国のチャーチルを評価していて、黄色人種の国を打ち破ったと言って称賛した。
 ルディ・カウスブルックによると、インドネシア独立のきっかけを作った日本人を「黄色人種の分際で白人に楯突いた」と言って憎んでいるという。
 ドレフュス事件の時、「われ弾劾す」を書いて、ユダヤ人であるがために冤罪を着せられたドレフュスを擁護した大作家エミール・ゾラは、パリの新聞から袋叩きに遭い、亡命した。
 藤村の『破戒』の主人公瀬川丑松は「わたしは新平民です、すみません」と謝り、知識人の批判を受けたが、今もなお「部落出身者を総理にできないわなあ」と言う政治家がいる。藤村はまさに、「すみません」と言わざるを得ない当時の空気を描いたのである。
 関東大震災の時に、大杉栄伊藤野枝は、甘粕正彦らに殺されたが、その後、在郷軍人らは、甘粕の助命嘆願を行い、人々は署名した。そのせいかどうか、甘粕は軽い刑で済んだ。
 彼らには彼らなりの「理屈」がある。ユダヤ人は、善良なキリスト教徒に高利で金を貸して苦しめてきた、とか、社会主義だの無政府主義だのは、国家を破壊する思想だとか。
 映画『善き人のためのソナタ』を観て、社会主義国の支配層は、自分らのしていることを悪いと思っていたのか、と思った。ポル・ポトピノチェット(これは反共だが)も、スターリン毛沢東も、やはり自分らのしていることは正しいと思っていたのではないか。ただ、その末端で働く者の中には、自分が権力に迎合している、と感じるだろう。しかし、
 「おとなしくしていりゃあいいものを、ご時勢に逆らうからいけないんだよ」と彼らは思ったであろう。
 ゾラの例でよく分かるとおり、輿論の多数だの新聞輿論だのというのは、別にそれをもって正義であるというものではない。
 しばしば、こうした圧制の下では、庶民は保身のために、
 「ユダヤ人(黒人、新平民)なんだからおとなしくしていればいいのに」
 などと言うものだ。
 http://d.hatena.ne.jp/ROMman/20080215
 こいつなど、そういう歴史に何も学んでいないようだ。「おとなしく黙って耐えている喫煙者はまだ許せるが、禁煙ファシズムと戦うなどと喫煙者の分際で言うのは不届き」というわけだ。現実に喫煙者迫害が明らかに進行している中で、これに異議を唱える者をファシストと呼ぶなど、筋違いも甚だしい。しかもこいつ、斎藤貴男非喫煙者)や養老孟司山崎正和には何も言ってないのな。誰かさんみたいだ。
 (小谷野敦