三月十一日の日経新聞に、小川国夫が「煙草」という随筆を書いていると聞いて、図書館で見てきた。なるほど後半は、最近の煙草迫害は度が過ぎていないかという話なのだが、前半は、禁煙となっている場所(確か屋外)で、小川が人のいない所まで行って煙草に火をつけると、あとをつけてきた女が注意するという話で、「なるほど非は私にある」と書いてあるのだが、もちろん、人のいない場所まで行くのだから、あとをつけてくる女の方が異常である。小川も弱腰だなあと思ったのだが、よく読むと、皮肉になっている。
私は「路上喫煙禁止」とあっても、人ごみ以外では歩き煙草をする。ただ、渋谷駅周辺は昼間は常に人込みだからできない。法にせよ条例にせよ柔軟な対応が必要なのであって、ほとんど人のいない所で吸って咎められる何の筋合いもない。
JR東日本、断じて許さん。法人登記簿をとってきたから、法廷で戦う。

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以前、インターネットの影響力はテレビや新聞を凌げないだろうと書いたのを、ネット嫌いの私の希望的観測だと思っている者がいるようだが、あれは悲観的観測である。新聞やテレビがこぞって禁煙ファシズムである現状で、どうして私がマスコミの味方をするか。

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ちくま文庫から「石川淳コレクション」全三冊が出たのだが、うち一冊が「長編小説選」なのには驚いた。全何巻かの「長編小説選」なら分かるが、一冊の文庫版が「長編小説選」とはどういうことだ。入っているのは「白描」(「しろねこ」ではない)、「天馬賦」「八幡縁起」だが、「天馬賦」も「八幡縁起」も中編ではないか。長編というのは『至福千年』『狂風記』とか、そういうものだろう。ただし私はどれも読んだことはない。石川淳の小説がおもしろいと思ったためしがない。
菅野昭正も、解説で「中編」だと書いているのだが、先の日曜の毎日新聞田中優子がこのコレクションを書評して、評論に「江戸人の発想法について」が入っていなかったら、個人的恨みから酷評していたところだ、と奇妙なことを書いていた。私に恨みがあるのは分かるが、これは私とは関係ないし、菅野先生に恨みでもあるのであろうか。読者に分からない書評を書いては困るなあ。(附記)考えたら、「江戸人の発想法」がなかったら「個人的な恨みを抱く」という意味だと分かった。