竹田出雲二代(第三回)

 翌享保二十年(一七三五)九月には、出雲と文耕堂合作の「甲賀三郎窟物語(いわやものがたり)」が上演された。また十一月には、二代目義太夫が禁裏から上総少掾を受領した。
 翌年二月には、「赤松円心陣幕」が上演されたが、これは、文耕堂と三好松洛の合作で、上総少掾受領の祝儀演目であった。四月に年号が元文と変わり、五月には「敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)」、十月には「
猿丸太夫鹿巻筆」の新作が上演されたが、いずれも文耕堂・松洛合作で、四十代後半になる三好松洛が竹本座の重要な作者の一人となっている。
 元文二年(一七三七)、一月に二代目義太夫は播磨少掾を再受領し、義太夫節における第一人者と認められ、竹本座を支える義太夫語りの地位は揺るがぬものとなった。文耕堂と三好松洛の合作で「御所桜堀川夜討」を上演した。『平家物語』『義経記』に取材し、頼朝と仲が悪くなった義経が、土佐坊昌俊の襲撃を受ける話を元にしている。中では弁慶と女人との邂逅を描いた「弁慶上使」が今も歌舞伎でよく上演される。
 出雲は、千前軒という俳号を用いるようになり、元文三年には文耕堂との合作で「小栗判官車街道」を出した。小栗判官の伝説をもとにしたものである。息子の清定は、小出雲と名のって作者部屋に加わった。
 元文四年(一七三九)四月には、千前軒、小出雲親子に、文耕堂と松洛、浅田可啓の合作で「ひらかな盛衰記」を出した。これは『平家物語』の異本のひとつ『源平盛衰記』に取材したもので、梶原源太の恋、戦死した木曽義仲の遺児と遺臣に、初代出雲得意の子供の身替りがあり、源太の恋人・梅ヶ枝が遊女となって手水鉢をたたくと小判が降ってくる「梅が枝の手水鉢」まで、古典を自在に操って複雑怪奇な筋立てとしたいかにも義太夫狂言らしい作となった。
 武士の世界は時代物として、町人の世界は世話物としてあり、ここではその二つが縄のようにないあわされて、時代と世話が複雑にからみあう「時代世話」の世界になっている。これがのちのちまで近世藝能の基本となる構造であった。
 浄瑠璃においては、正義が悪を倒して終わりということはない。登場する人物はしばしば何ものかと何ものかの板挟みになって苦悩し、時にわが子の命を、また自分の名誉を犠牲にしてしまう。それがなぜ当時の関西の町人に受けたかということは、もちろん彼らが武士の支配する封建道徳の世界に生きていたからとも言えるし、昭和時代において恋に泣く女の歌が流行ったように、それは流行ったのだと言うこともできるだろう。
 元文六年(一七四一)、二月に寛保と改元され、五月に竹本座では文耕堂、松洛、小川半平、小出雲の合作で「新うすゆき物語」を出した。これは浮世草子のロングセラーだった恋愛物語「薄雪物語」を下敷きにしたもので、やはり歌舞伎になって今日でも上演されている。実に竹本座の黄金時代だったわけである。
 これに出雲が参加していないのは、息子の竹田近江清英がからくり上演のため江戸へ下っていたのに同行していたからである。
 しかし竹田出雲も、七十代半ばを超える高齢であり、周囲は当然のごとく、江戸下りを止めた。だが出雲は、
 「わしはもう生い先長くない身やないか、江戸ちゅうもんがどないなところか、いっぺん見て冥途の土産にしたいのや」
 と言い、周囲も、それなら途中で倒れてもよしとするか、というので送り出したのである。淀川を三十石船で上り、そこからは出雲だけが駕篭に乗り、からくりの道具は十三頭の馬に積んでの大きな行列となった。
 江戸で出雲は、歌舞伎の市川團十郎に会った。といっても、二代目團十郎はこの時には海老蔵と名乗り、三代目團十郎を息子に譲っていたから、会ったのは海老蔵のほうである。海老蔵は五十三歳になっていた。
 「このままでは浄瑠璃は歌舞伎に人気をさらわれてしまいますわ」
 そう、出雲はぼやいた。二代目團十郎は、上方浄瑠璃を積極的に上演しており、「国性爺合戦」のほか、「曽根崎心中」や「心中天網島」の主役も演じたことがあった。著作権のない時代の無断上演である。
 海老蔵は、苦笑しながら、
 「それなら、浄瑠璃も歌舞伎のいいところをつまんでいったらいかが?」
 などと返した。出雲は海老蔵に、ぜひ上方へ来て上演してくれるよう言い、海老蔵は快諾した。といっても、その年十一月から、大坂の佐渡島長五郎の芝居に招かれていたのである。
 出雲・近江父子は帰路についたが、秋になって、海老蔵團十郎の父子が上方へやってきて、大当たりをとった。ところが十二月に息子の團十郎が病に倒れ、江戸へ帰ることになり、海老蔵だけが残った。出雲は年末には海老蔵を招いて一席設け、息子を心配する海老蔵を慰めた。
  年明けの正月から、海老蔵は「雷神不動北山桜」を初演し、歌舞伎十八番の一つである「鳴神」「毛抜」をここで披露した。歌舞伎十八番の多くはこの二代目團十郎の作・初演である。二月の竹本座では、松洛・小出雲の合作による「花衣いろは縁起」が上演されていた。
 だが三月になった時、江戸で二月二十七日に三代目團十郎が二十二歳の若さで死んでしまったという知らせが届いた。海老蔵は嘆いたが、契約があるから九月までは大坂に留まらざるを得ない。出雲は、五十過ぎて養子とはいえ後継者を失った海老蔵に深い同情を寄せていた。
 七月に出雲の単独作として「男作五雁金(おとこだていつつかりがね)」が初演された。大坂で処刑された雁金文七という無頼漢と、その仲間の総勢五人を主人公とし、のちの「白浪五人男」などの原型となった浄瑠璃である。ここでは発端で江戸が舞台となっているのは、江戸を実見してきた出雲が取り入れたもので、江戸の花岡文七という男と、大坂の雁金文七という二人の文七が登場する。これも大当たりで翌年春まで続演された。
  その初演からほどない八月末、ようやく和らいだ暑さの中で、出雲が次作の構想を考えていると、松洛と小出雲が蹌踉としてやってきた。
 「何ごとや」
 と、二人の顔色を見て出雲がぞっとしながら言うと、
 「文耕堂が逐電しました」
 と言う。はっと思って話を聞くと、さらに事態は深刻であった。近江清英が江戸へ行って留守の間に、近江の妻かなは、文耕堂とわりない仲になっており、それが今になって近江の知るところとなり、近江が猛り立って女敵討ちをすると言うので、文耕堂が消えてしまったというのである。
 「で、清英は、清英はどうしている」
 「奥様も切り殺されそうになり、私らで逃がして知る辺に預けております」
 ともかく、近江を宥めなければ、と、出雲は松洛、小出雲とともに近江の宅へ出向いた。
 近江は、自宅で目を据えて酒を飲んでいた。出雲らが入っていくと、
 「清定、女房はどこへやった」
 と小出雲に怒鳴った。出雲は老体なので、怪我があってはいけないと、小出雲と松洛から近寄らないように押しとどめられた。
 それから数日ごたごたが続き、出雲は疲れ切って家で寝込んでしまった。だが九月二日、荷物を取りに戻った近江の妻が、近江に発見されて刺し殺され、近江もその場で喉笛を切って自害してしまった。
 奉行所へは届け出たが、出雲の政治力で、何ごともなかったかのようにし、記録としては近江と妻が同日に死んだことだけが残った。
  出雲は、息子夫妻の悲劇に精神的衝撃を受け、老体に鞭打って、竹田からくりの後始末に奔走し、竹田からくりは近江の弟の平助に継がせて、四代目近江とした。
 十月四日に、かつて豊竹座の立作者として近松門左衛門と覇を競った紀海音が、享保期に引退していたが、八十歳で世を去り、出雲も自分もそろそろ定命だと感じるようになった。