書評・大島真寿美『渦 魂結び 妹背山婦女庭訓』 週刊読書人

 岡本綺堂に「近松半二の死」という短編戯曲がある。歌舞伎の隆盛により衰退する人形浄瑠璃を憂え、「伊賀越道中双六」を未完のまま死んでいく近世中期の浄瑠璃作者・半二を描いたもので、私はこれに「トゥーランドット」を未完のまま死ぬプッチーニを重ねたりして、いずれ近松半二の伝記小説を書こうかと思っていた。だから大島真寿美による半二の伝記小説が出たと知った時は「やられた!」と思ったものだ。
 小説に、というのは、半二の伝記はよく分かっていないからで、近松門左衛門を尊敬し、「虚実皮膜の論」を「難波土産」に書いた儒者・穂積以貫の次男ということと、大坂・竹本座の座付き作者として、おびただしい数の、今も上演される浄瑠璃作品を書いたことが分かっているだけである。しかし大島は、これに独特の文体で肉付けをしていく。半二の達者な大坂弁での語りを地の文として、同年輩の歌舞伎作者・並木正三との交友や、兄の許嫁だった娘、そして妻など架空の人物を配し、「妹背山婦女庭訓」の成立を描いて、そこから登場人物お三輪の語りが入り込み、奇抜なフィクションはなしに手堅く半二の死までを描いている。途中、二代竹田出雲が死んだと伝えたあとで出雲が出てくる場面があるが、これは死んだと伝えた上で生前のことを描くというこの小説の手法なのだろう。「析の音が聞こえた」で締めているのは、宮尾登美子『きのね』への挨拶か。うまい小説で、直木賞をとってもおかしくない。
 「近江源氏先陣館」が抜けているが、これを入れて、子供が犠牲になる武家社会への疑念を半二が抱き、そこから「妹背山」へ持って行くという手をなぜ使わなかったのかな、と思うが、『オール読物』連載だから、武家倫理に共感する読者も多いことを考えてそれはしなかったのか。また、藝術家・作者伝記小説として、虚と実といったあたりに抽象的思弁を展開するあたり、これは題名の「渦」にもつながるが、あるパターン化に陥っている。詳しいことが分からない伝記小説では、分からないところを創作しようとすると、あるパターン化に陥ってしまう。だが歴史・伝記小説でなくても、小説はあるパターン化に陥りがちで、それが今限界まで来てしまったという気がする。本作の最後で、半二と仕事をしてきた菅専助が、「浄瑠璃に飽いた」と言って仕事をやめてしまうが、実際には専助は半二没後まで仕事をしている。「わしはもう、一生分の浄瑠璃をみてしもたんかもしれへんな。そやさかい浄瑠璃腹がくちくなってしもたんやな」というセリフは、「小説」に対する作者の感慨なのではないかと思える。
 普通はこのあと、それでも作者にはさらにいい歴史小説を書いてもらいたいと続けるのだろうが、それを言うには小説の現状は、浄瑠璃のそれのように厳しい。