久米依子の「『赤毛のアン』をめぐる言説配置 九〇年代フェミニズム批評とバックラッシュ」(『国文目白』二〇一五)という論文を読むと、私の『聖母のいない国』(青土社、河出文庫)が批判されているらしい。らしいというのは、大塚英志と山本史郎と茂木健一郎が一緒に批判されていて、そこへ紛れ込ませてあるからである。久米は小倉千加子らが、アンは自己実現を果たそうとしていないとしたのに対し、私が、『アン』の愛読者が、一流大学にいる女子ではないとし、もともと人間誰しも実現すべき自己などないのだとしたのを曲解して、私が、職業など持たずにやっていくのが女のとるべき道だと言っているとか、ほかの「男性」論者と一緒くたにして「熱く賞賛しているといえよう」などとあいまいなことを言っているが、私は女のことなど言ってはいない。男でも女でも、特段の才能のない者は普通に生きていくしかないと言っているだけだ。なんだか、女の論者はいいが男の論者はいかんとかいう、ひと昔前のバカフェミ論文みたいだった。日本近代文学会で発表したらしい。
それにしても、私はこの論文を入手するのに人手を煩わせてしまったのだが、送ってくれないかと日本女子大国文科へメールしたが梨のつぶてだった。久米にしても、抜き刷りくらい送ってくるべきだろう。
大波小波12日で『大江と江藤』を面白いと書いていてそれはいいのだが「調査魔」とか書いている。調査するのは当たり前で、ノンフィクション作家を「調査魔」などとは言わないだろう。文学というのは調査なんかしないで直観で言うものだという謬見があるわけだ。