尾崎翠の勘違い

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20101220
 浜野佐知の『女が映画を作るとき』(平凡社新書、2005)を見ていたら、
尾崎翠は、当時の日本文学の主流である自然主義を真っ向から批判した、表現主義モダニズムの作家であるとされる」とあった(46p)。
 ははあ、浜野佐知がまず「自然主義が主流だった」と勘違いしたのだな。映画監督だから、文学史に疎いのはしょうがない。ほかに加藤幸子尾崎翠の感覚世界』(1990)、群ようこ尾崎翠』(1998)を見ても、尾崎が自然主義を批判したことは書いてあっても、当時の主流とは書いてない。川崎賢子の『尾崎翠 砂丘の彼方へ』(2010)は、これは文学研究者だからそんなことを書くはずがない。角秋が「20世紀初頭のドイツ表現主義の影響を受け、自然主義を唾棄すべきものとして東京で先鋭的な文学活動を始める。」と書いたわけだが、これだと、まるで独自にドイツから影響を受けたようで、大正末年のモダニズムの流れを押さえきれていない。

尾崎翠「現文壇の中心勢力に就いて」(『若草』昭和2(1927)年9月号)「現在の日本文壇の中心勢力は、何と言つてもやはり自然主義である。」/引用は尾崎翠フォーラム2003年報告集より/昭和2年尾崎翠の勘違い?」
 勘違いである。「私小説」の書き間違いであろう。

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猿之助三代』の見本が届いたので、寄贈者名簿を作っていて、東大比較には歌舞伎好きな人は少なかったんだなあと思った。好きで観ていたのは私と佐伯さんくらいじゃないかとさえ思うが、その佐伯さんでさえ、能が主だった。つまり、能楽が歌舞伎より上という、古来の差別が生きていて、だから能楽が好きな人は多かった。
 それで佐藤かつらさんなんか修士だけで国文科へ行ったわけだが、本郷の国文科だって、歌舞伎が専門の教授なんかいたことがない。歌舞伎は早稲田でやるもので、だから古井戸先生なんか東大へ来ても国文科とは無縁なわけだ。
 日本近代文学だって、本郷でやるより早稲田とかでやるものだし、ましてや藤井淑禎氏が乱歩なんかやっていられるのは立教だからである。
 さらにいえば、小説そのものが、研究対象として低く見られていて、比較の四天王なんかほとんど小説よりも詩である。菅原さんとか今橋さんも、小説より詩という傾向がある。それは英文でも仏文でも独文でもそうで、独文なんか圧倒的に詩とゲーテだし。

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人間国宝尾上多賀之丞の日記』(大槻茂)に、妻ウタの、多賀之丞は女形だから、という含みで「住んでいた離れには、立って用を足すのが難しい女性用の便所しかないのよ」という談話が書かれている。つい読み流すかもしれないが、要するに和式の便所だとすると、私が子供のころは、どこの家でも和式だった。つまり、当時として普通のことだったわけだし、第一普通の家には一つしか便所はない。多賀之丞は、門地が低いので差別された、というのがこの本の趣旨だが、金持ちだったわけである。この辺、書いている大槻が気づいているのかどうか。


 (小谷野敦