石原慎太郎の『わが人生の時の人々』(文藝春秋、2001)は文春に連載されたものだが、中に、大江、江藤、開高といった同世代の文学者たちとの若いころを回想し、なぜ今は昔のようなポレミックが成り立たなくなったのかと書いている。要するに、本当に仲が良くはないからだろう。福田和也坪内祐三だって、芯から信じ合っていないから、なれあい対談を続けられるのである。
 まあそれはそれとして、その中に、

 以前大評判となったある作家の娯楽小説を読んでみたら、主題が一種のポルノグラフィであるのに、作品そのものは一向に官能的でもなくエロティシズムもありはしない。こんな小説がなぜ厳しい批評の対象にならないのかと不思議に思っていたら、誰かが一度だけある新聞に酷評したら、作者から社に、人が命がけで書いたものをけなすとはけしからんと電話がかかったそうな。
 何であろうと作家が命がけで物を書くのは当たり前の話だが、それをけなされて作家がまともに(?)怒るというのもいい気な話で、反論ならともかく、彼がいかなる巨匠であろうとただ怒って抗議するというのは権威主義を借りたある種の衰退としかいいよう(ママ)ない。それで沈黙してしまう相手も相手だが。

 その後文庫になっているから「ママ」のところは直っているかもしれない。栗原さんがこれを見て、渡辺淳一か、とツイートしていたのだが、『失楽園』なら、誰も批判しない、などということはなかった。これは中村真一郎であろう。中村は晩年、ポルノグラフィックな小説をむやみと出していて、これは『仮面と欲望』の続きの『時間の迷路』を、1993年9月19日産経新聞朝刊の「X氏が読む」という、半年くらい毎週書かれた匿名書評が批判した時のことであろう。

これだけ執拗に退廃の主題を探求しながら、退廃がそれほど小説的存在感(アクチュアリティー)をもっているとは感じられないのは何故だろう。多分、この主題と、男と女の「自分とは何か」という、もう一つの主題とがうまく噛み合っていないからに違いない。彼らの自己同一性(イダンティテ)の主題が丁寧に追求されればされるほど、官能も退廃も味気ない自己正当化の弁明じみてくる。理知的作家の限界であるか。

 とある。最後に「英文学者」と書いてある。中村が怒ったのは、匿名だったせいもあるだろうと思う。(もっともこれは石原が書いているのが中村のことだとしての話だが)。
 なおこの英文学者は、野島秀勝である。なに、連載終了後半年ほどして、「野島秀勝の一冊」として再開した際に自分で明かしているのだ。
 まあ『仮面と欲望』が大評判になったか、といえば「大」はない気がするし、娯楽小説って中村は純文学のつもりだったわけだから、渡辺淳一と誤認させようとしている気配もある。こういう時は、他人と間違えられないよう、ちゃんと実名を書くべきなのである。