人気作家の作品が、単行本で出て、のち文庫本になる、という言い方は、便利なので私もするが、厳密には正しくない。文庫本も単行本だからである。かといって、その「単行本」は「ハードカヴァー」とは限らない。ハードカヴァーの対義語はペーパーバックで、ペーパーバックの「単行本」もある。つまり「単行本」を表す用語というのは存在しなくて、文庫版ではない、新書判でもない、といった否定的な定義しかしえないものなのだ。
講談社や徳間書店などでは、単行本がノベルスになり、さらに文庫本になるということがある。講談社の場合、まだ講談社文庫がない自分に、ミリオンブックスという新書判で小説を出すことがあった。しかるに「ノベルス」というのもまた、慣行に従った表現で、カッパブックスを嚆矢とする、判型は新書で、ただカヴァーが光って、絵や著者近影が折り返しではないところにあって、派手、ということだが、一時は、岩波新書などが小説を入れなくなったたため、小説が新書判ならノベルス、としておけば良かった。ところが、『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』がちくまプリマ―新書で出て、さらに直木賞候補になったため、混乱が始まった。「ノベルスが直木賞候補になるのは三十年ぶり」などと書いている人もいたが、それは間違い。それに、祥伝社にはノン・ポシェットという、新書判でもない、少し大きさの違うのもある。
(付記)シリーズものでないのを単行本というのだと、出版をしている人に教えられた。しかし、早川書房のSFやミステリーは「ハヤカワ・ミステリー・シリーズ」とかに入っているし、児童文学作品はたいてい、「新しい子どもの文学」みたいなシリーズに入れられている。「新潮クレストブックス」とか「純文学書き下ろし特別作品」とか、シリーズ枠に入って出たものは結構多いので、この用法は自ずと、一般読者が言っている「単行本」とは別のものだろう。
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今週の『週刊文春』は立ち見したら面白そうだったので久しぶりに買った。能町みね子が、田中慎弥について「気の小さい人が倒れたりすると、都政が混乱しますから」と言ったのを、「気の小さい都知事が」とする文章に異議を唱えていたのが面白かった。あとまあ、永井龍男が「エーゲ海に捧ぐ」の受賞に反対して中途退席した話もあり、石原を「子供っぽい」とか言っていた書評家は、永井龍男も子供っぽいと言うのかなあ、と思ったりした。あと野田聖子の記事。私はそのテレビ番組なるものを見ていないが、佐藤愛子が特別寄稿して、「その覚悟の前にはすべての人が言葉を失うでしょう」としつつ科学技術の進歩に疑念を呈するというスタンスだが、本文中ですでに言葉を失っていない人がコメントしている。私だって言葉を失うものか。家名存続という前近代的な意識にとらえられているだけの野田と、夫婦別姓などというリベラルぶったインチキで共闘していた連中は反省しろ! 命をもてあそんだ野田は、議員辞職すべきであろう。科学技術なんか、この場合関係ないんだよ。ただ家名家名。家名の亡者・野田聖子である。
(小谷野敦)