先日、さる若者のインタビューを受けた際、私が、加藤秀一の恋愛結婚論に触れたら、出来上がってきた原稿には「加藤周一」と書いてあって、ふむ、東浩紀を尊敬しているらしいこの若者は、加藤秀一を知らないのだな、と思ったのだが、むろんそれは修正し、彼がさらなる勘違いをしないために「ちくま新書」と書き加えておいたのだが、それでふと、書棚にあった加藤周一の『続・羊の歌』を読過した。
私が正編『羊の歌』を読んだのは、確か大学へ入った年だから、それから四半世紀をへて続編を読むことになったわけだが、正編を読んだ頃私は、戦前の東京の裕福な家庭に生まれ育ち、琴を弾くような母を持ち、夏は軽井沢の山荘にあって中野好夫と語り、東大医学部にいながら仏文科の授業に出て中村真一郎と語る姿に憧れた。どういうわけか、この本のことを思い出すと、果たしてそれを読んでいた時のことだったのか、それとも軽井沢からの連想か、大学三年のころサークルの合宿へ行った時の読書会の場面を思い出すのである。
それは、英国のアラン・ガーナーの『ふくろう模様の皿』をめぐる読書会で、私は原題をOwl Serviceというそのファンタジーがたいへん気に入り、「これは貴種流離譚だ」などと言っていたのを覚えている。
『羊の歌』で加藤は、自分も小説を書こうとしたが、自分の身の周りには小説になるようなことは起こらなかった、と書いていた。私はそれを読んで驚いた。小説というのは、自分の身の回りに起こったことを書くものだと思っていなかったからである。事実、その頃密かに流行していたのは、『羊をめぐる冒険』であり、また世間的にも読まれていたのは『コインロッカー・ベイビーズ』であって、私小説などではなかったからである。おかげで私の頭の中では、『羊の歌』と『羊をめぐる冒険』がしばしば連想の鎖に繋がれて出てきたものだった。むろんそれからしばらくたって、『羊たちの冒険』などと、別のものと混同した言い間違いをしたりしていたのだが。
『続』は、実に意想外に面白かった。1968年に初版が出たこの岩波新書には「シナ人」「シナ語」という言葉が出てくる。こういう言葉が追放されるようになったのは、1980年頃のことだった。
だが面白かったのはそのことではない。文学や藝術や政治をめぐる話題の中に、すらりすらりと、女の話が出てくる。京都に、加藤の恋人がいた。しかし加藤は、イタリアで知り合ったオーストリア在住のドイツ語女性と恋におち、遂には京都の女に別れを告げて、ドイツ人女性と一緒になる。そしてまた、実にしばしば、その筆致は気障すれすれになるが、気障に陥らない。
加藤は小説や戯曲も書いており、「ある晴れた日に」などは文学史にも載っているが、芥川賞候補になどなったことはないし、さして評価はされていない。しかし戯曲「富永仲基異聞」は前進座によって上演されたが、いかにも前進座らしい、いい舞台だった。しかし文壇も劇壇も大方は無視したようだった。
加藤はもちろん左翼であり、護憲派である。しかし加藤は天皇制を認めたことなどない、一貫した反天皇主義者であって、かつ国家の褒賞など貰ったことはない。私はそういうきちんとした左翼は好きなのである。いちばん嫌いなのが、護憲だの反戦平和だのを言いつつ天皇制を認めたり、紫綬褒章や文化勲章を貰ったりする輩であることは、言うまでもない。
ところでそこに、ジロドゥーやアヌイのギリシャ劇を観ていて、あとで本物のギリシャ悲劇を観たら、ジロドゥーやアヌイは不要であることが分かった、とあったが、私などは最初からギリシャ悲劇そのものを観ていたから、ジロドゥーやアヌイの存在意義が分からなかった。あれは一体何だったのだろう。私からすれば、ラシーヌやコルネイユによるものすら、時には不要に思える。フランス人にとっては、フランス語の台詞に意味があるのだろうが、私にはない。「アタリー」のような聖書劇は、キリスト教徒ではない私には何も面白くない。