女の私小説

 『本の雑誌』7月号で北上次郎氏が私の『久米正雄伝』の書評を書いてくれている。ありがたい。
 それはそれとして巻頭には、岡崎武志荻原魚雷私小説をめぐる対談があって、これにちょっと引っかかった。どうもやはりお二人とも、私小説を狭くとらえるか、あるいは私が私小説から分けた心境小説を私小説に入れている観がある。岡崎氏は私の『私小説のすすめ』を大変いいと言いつつ、海外にも私小説はあるという私の論に対して、あちらは靴を履いているがこちらは下駄ばきで畳で、とか言っているが、それは偏見で、単に大正期ころの私小説のことを考えているだけである。ないしこれが比喩であるなら、そういう感覚的なとらえ方をして、細かく検討をしなかったために、私小説が日本独特だという謬説が生まれたので、それを再生産してはいけない。
 また後の方で、女性の私小説作家がいない、柳美里くらい、と言っており、岡崎氏が、昔は女性のプロレタリア作家、宮本百合子平林たい子佐多稲子らがいたが私小説は出ないと言っていて、私はちょっとこのプロ作家が出てくる意味がよくとれないのだが、宮本百合子は歴然たる私小説作家だし、佐多も概してそう、平林も、後年中間小説を書く前はそうである。
 だいたい、1980年ころまで、純文学作家はたいてい私小説を書いたもので、そうでない、女でいえば曽野綾子有吉佐和子は、そのために中間小説作家とみなされたのである。女の私小説といえば、田村俊子を嚆矢として、林芙美子幸田文萩原葉子林京子、山本道子、津島佑子と連綿たる流れがある。笙野頼子だって初期は私小説だったし、青山七恵の「ひとり日和」も私小説だと思う。