シャインマスカット
ごみを出しに行って戻ってきたら、何かを包丁で切る音が聞こえた。ちらりと妻の姿を見て、河原は自室へ入った。
椅子に座った瞬間、今でも煙草が喫いたくなる。七年も前にやめたのだが、最初の三年ほどはひどい禁断症状で、廃人になったようだった。
机の上に積んである、図書館から借りだした本の一冊を取り上げて、河原は読み始めた。塩野七生の「ローマ人の物語」の、第六巻である。学問の世界では異端的な著作かもしれないが、歴史学者でない河原にとっては、古代ローマの概略を知るのには適している。
河原健吾は、元々はシェイクスピアを研究する英文学者だったが、次第に日本の近代文学についての評論が多くなり、今では小説も書いている。五〇歳になるころまでは大学教授もしていたが、それも学生への応対が面倒になってきたのと、学内が禁煙の場所が増えてきたのとでやめた。後者は、煙草をやめたことで意味はなくなったが、学生対応は、非常勤講師をしている妻に聞いてもいろいろ大変そうだ。
授業の時に、毎回「リアクション・ペーパー」というのを学生に書かせて授業の感想を聞かなければならないし、昔のように気軽に叱責したら、パワハラ扱いされかねない。教材についても、不適切だという声をあげる学生がいたら説明しなければならないし、学生はアンケートを書いて教務課へ苦情を言ったりする。
もっとも、自宅での文筆家になったら楽は楽だが、このところ出版不況が厳しくなり、財政状態が悪化してきた。
そんな中、やってきたのが、ポンピドゥー賞の選考委員の仕事だった。この賞はとある文化財団が二十年以上前に設立したもので、毎年一回、毎年変わる選考委員が、一冊の文学的な著作に授与するというユニークな賞で、ほかであまり選考委員をやっていない人が選ばれることが多く、河原も選考委員などはほとんどやったことがないので回ってきたのである。
電話を受けて、承諾の返事をして、電話を切ると同時に頭をよぎったのが、妻の伊牟菜のことである。伊牟菜は十歳ほど年下で、美学を専攻して大学の非常勤講師をしているが、詩人としてもこれまで六冊の詩集をだし、一冊だけ小説も出しているが、詩集はみな自費出版で、詩の世界ではそれが普通のことだが、一度も詩の賞をもらったことはない。小説のほうはファンタジーものだったが、まったく売れなかった。
つまり、河原がその気になれば、妻の詩集にポンピドゥー賞を与えることができるようになったわけだ。だが、もちろんそんなことをすれば世間の顰蹙を買うのは当然である。河原はこれまで、選考委員として配偶者に賞を与えてしまった人を二人ほど、というか二例知っている。一人は女性の大物評論家が、あまり知られていない料理評論家の夫に与えたもので、といっても選考委員は複数いたのだが、頼み込んだのだろう。しかし翌年から、その女性評論家は選考委員を降りてしまった。もう一つは、さる大手新聞社が主催する文学賞で、選考委員の中に夫の詩人がいて、妻の詩人が受賞してしまったというケースで、こちらも、夫は翌年から選考委員を降りている。
やっておいて降りるというのは、何だかその昔、犬養健という法務大臣が「指揮権発動」をしておいて法相を辞任し、政治生命が絶たれたのと似ている。もっとも河原は、政治生命が絶たれるようならなぜそれが法的に認められているのかが、今なお疑問である。
ポンピドゥー文学賞では、さすがに配偶者に授与した例はないが、仲のいい人に授与するなどということは時おりあった。それにしても・・・・・。
伊牟菜は、この先詩集を出し続けても、賞をもらうということはないだろうと、河原は思っていた。賞というのは、「絶対公正」などというものではなくて、河原くらい長く生きていると、ああ、これはあの人とのつながりだな、と分かるような形でもらうことが多い。それなら、苦労して非常勤講師をしている妻にそれくらいプレゼントしたって、バチは当たらないだろう・・・。
選考委員に決ったことを妻に伝えたら、
「あら」
と言って小さく手を叩いて、
「審査は絶対公正にやらないとね」
と言ったものだった。河原はちょっと顔が歪んだが、そう言いつつ本当は欲しいのだろうな、と思った。
この一年間に出た文藝書を中心に選考するので、パソコンであれこれ新刊書に当たらねばならないが、それは不断からしていることだ。もっとも河原としては、せっかくなのだから、ほかにいくつも賞をもらっているような人ではなく、これまで不遇だった良い書き手に与えたいという思いがあるから、マイナーな出版社から出ているものも、取り寄せて読んでみたりするが、これまで書評をする時もそうだったが、マイナーな出版社から出ている小説というのは、やはりそれなりに力のないものが多かった。といって、大手から出ている小説が必ずしもいいとは限らないのだが・・・。
三日に一回くらい、近所の図書館へ自転車で行って、十数冊の本を取り替えてくるが、今は長谷川町子の『サザエさん』を最初から一冊ずつ読んでいる。ちょうど一九五四年くらいのところだが、当時の世相が分かって面白い。「ポカン」という当時はやったらしい遊びが出てきて、これは小学校へ上がるくらいの学年がやったのだろうが、友達の名前を呼んで、返事をすると「ポカン」と言うというつまらない遊びだが、それを知らないと分からない回があったりした。
このところ、新刊の本を面白いと思うことが少なくなってきた気がして、河原はそれを自分の老いかとも思うが、よく考えてみると昔から、新刊からいい本を見つけ出すのは難しかった。そしてあとになって、ああこんな面白い本が出ていたのか、と気づくことが多くて、だから書評仕事というのは難しい。大手出版社から出ていれば面白い率が高いはずだが、それでもうまく見つけ出せない。だが中には、そういうのを見つけるのがうまい人というのがいるのだろうし、周囲に新刊をよく読む人が多いとか、時にはプロの下読み集団を雇っているといったプロの書評家というのもいるだろう。
たとえば川端康成の「伊豆の踊子」が本になった時、これは後世に残る名作だ、と賞賛した人というのは確かいなかったはずで、しかしそれから十年もたてば川端は文壇の中堅としてかなりの地位を占めていた。村上春樹も、芥川賞候補に二度なってとれなかったが、デビューから三年目の『羊をめぐる冒険』は話題作となり、八年目の『ノルウェイの森』は大ベストセラーになって毀誉褒貶半ばした。
勝目梓の『小説家』のような自伝的私小説の隠れた名作が見つけられればいいと思ってあれこれ読み散らし、そのため散財もしたのだが、なかなかいいものは見つからなかった。一方、妻のほうは今年は詩集『潮干狩りの跡地』を出していて、一読した河原は、悪くないなと思ったが、これは夫の欲目だろう。だいたい河原は小説や戯曲は対象にしてきたが、詩はやっていない。
世間が気にする文学賞というのは、芥川賞と直木賞、それからノーベル賞だけで、それ以外は一般的には空気のようなものだ。だから、河原がポンピドゥー賞の選考委員になったことを気にしている人はほとんどいなかった。ましてや、それを妻にやっていいものかどうか、気にしているなどということを考えている人はいなかった。だから河原は、友人の評論家・竹村に打ち明けるしかなかった。
「奥さんにはやれないでしょう」
と、竹村は一蹴し、河原も「そうだよね」と答えた。
妻は一度だけ、
「どう、ポンピドゥー賞、いいのありそう?」
と訊いた。夢にも、自分の詩集がとるとは考えていないようだった。河原は、自室へ戻って、涙を拭った。
結局、編集者から教えて貰った、むかし新人文学賞をとった女性が、大手出版社からは小説を出してもらえず、地味なところから出している小説集を読んで、それに決めた。
締め切りが来て、その本に決めたと担当者に連絡したら、担当者からその女性作家に連絡が行き、大変喜んでいるという伝言を聞いた。あとは授賞式の時に会うことになるだろう。
妻に、そのことを伝えると、「良かったわね」と言った。ちょうどその日、昔の教え子がシャインマスカットという葡萄を送ってくれた。これは皮をむかないで食べられるものだったので、つまんだら、とても美味かった。
「うまいね、これは」
と言ったら、
「ホント」
と妻も言った。
(終わり)