城山三郎氏が亡くなったようだ。前からたびたび、ぼけていると指摘していたが、ぼけたまま長命を保ったりせず、幸いだったと思う。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20060818
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20061231
ところで城山三郎、本名杉浦英一は経済学者だったが、マルクスではない。で、一時は何となく右翼っぽく思われていたが、晩年はむしろ左翼っぽかった気がする。
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別に城山を批判するわけではないのだが、「死者に鞭打つ」とよく言うが、考えてみたら、死者は鞭打たれても痛くも痒くもないのだから、これが特にひどいことのように言うのは間違いだろう。もっとも、死んでしばらくたてば「死者に鞭打つ」とは言わないのだから、これは家族や友人の、死んで悲しいという思いを忖度して言われる言葉なのだろう。とはいえ、江藤淳には近い家族はいなかったが、朝日新聞も「死者に鞭打たず」ずいぶん大きく取り上げていた。
しかし存外この「死者を尊ぶ」というものの考え方は、嫌なところがあって、たとえば「いじめにあって自殺」すると、世間は騒ぐし「いじめにあったから自殺する」と言っても世間は騒ぐ。だが、「いじめにあっている。助けてくれ」と言っても世間は騒がない。「強くなれ」とか無責任なことを言うだけである。
さて、以前とりあげた、いじめに対する復讐だが、まあ、今勤めている会社でいじめに遭っている場合はしょうがないが、中学校や高校でいじめに遭ったら、卒業したあとで、あるいは大人になってから、ブログで相手の実名をばらす、というのがいいだろう。いやそんなの、人が見てくれない、と言うだろうが、「××高校の××」と書いておけば、その内誰かが見つけて、当人も少しは嫌な気分になるだろう。
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西村博之は重要な問題提起をしている。結果としてだが、民事の勝訴などというのは、相手が無視したら何の効力も持たないということだ。もうこれは法の改正か行政の介入しかないだろう。
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ところで若い頃から感じていたのだが、日本古典文学を専攻している学者に、推理小説好きが多い。もっともそうじゃなくて、一般的に推理小説好きは多いのだが、近代文学や英文、仏文学をやっている人は、推理小説を軽く見て読まずにいるだけかもしれない。私は彼らが、推理小説好きを公言するのを聞くたびに、まるで恥じている様子がないのに驚いてきた。逆に、近代文学専攻で、推理小説などバカにし切っている人もいて、私が、松本清張研究の面白い本が、と言ったら(前にどこかで書いたぞ)「ええっ? 松本清張? 大衆小説を研究するの?!」と驚いた人がいて、「だって『松本清張研究』って雑誌もありますよ」と言ったらたまげていた人がいた。
ただ私が気になるのは、古典文学をやっている人の推理小説好きの中には、近代純文学を軽蔑しているような感じがすることだ。
もちろん私は中庸である。ただ、先日、東野圭吾の自伝的文章を読んだら、もう文学に対する意識が私たちと全然違うので、推理作家も今はこうなのかと思った。松本清張は芥川賞だし、社会派の場合は古典的な文藝を十分意識しているが、宮部みゆきには感じられない。しかし『蒲生邸事件』程度の小説を「宮部史観」(佐藤優)とは大げさな。