『黄落』の思い出

 今ごろになって、佐江衆一の『黄落』(新潮文庫)を読んだ。95年、佐江が61歳になる年の作品で、藤沢市に住む老いた両親の話である。私小説はやはりいい、と思う。これは名作であろう。
 ところで今読んだのに「思い出」というのはどういうことかというと、95年といえば3月に私は『夏目漱石を江戸から読む』を出して、すぐ増刷したのだが、原稿依頼などがまったくなくて落胆しうつ状態になったことは前に書いた。『黄落』が出たのはその二ヶ月後ということになる。佐江は26歳でデビューして五回芥川賞候補になったが取れず、90年に新田次郎文学賞を受けていたが、『黄落』は話題になった割に既存の賞をとらず、城山三郎選考委員でドゥマゴ文学賞を受賞している。城山は偉い。こんな時に『ねじまき鳥クロニクル』なぞに授賞する読売文学賞はおかしい。
 それはともかく、だからその二年後くらいになるのか、『男の恋の文学史』を出してくれる、女性編集者のAさんに、「ああ、学者の書いたものなんて売れないし、小説家になりたい」と言ったら、Aさんは、小説だって売れないものは売れないです、佐江さんなんか『黄落』が売れるまでどれほど大変だったか、見ているから分かりますと言ったのである。
 いやまったく、小説だって売れないものは売れないのだと今ごろ身にしみていたので、「思い出」なのである。