(その後受賞者津村記久子が芥川賞をとったので削除)
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夏目漱石が東京帝大を辞めたとき、「講師」だった。まあ明治期のことだし、職名もさまざまだったのだろう、と思っていたが、ふと、では英文科教授は誰だったのか、と考えて、調べたら、漱石が学んだ教授はディクソン、その前に坪内逍遥が学んだ時はホートン、つまり「お雇い外国人」である。漱石の前任者がラフカディオ・ハーンというのは有名だが、ハーンは「教授」とは言われていない。
じゃあ漱石が教えていた時の英文科教授はというと、いないのである。文科大学に英文学の講座ができたのが、漱石が辞めたあとの明治40年7月だが、英文科の専任の席は、大正五年に市河三喜が助教授になるまで空席で、教授も助教授もいなかったようだ。上田敏は漱石が辞めたあと明治40年11月から洋行し、洋行中に京都帝大に招かれてそれを受け、翌年帰国して京都帝大講師になるが、42年に教授になる。当時の東京帝大は、国語国文国史、教育学、美学、言語学(博言学)、梵語学には教授、助教授が揃っていた。独文科に助教授がつくのが大正三年の上田整次で、これは明治40年に助教授になっている。仏文科はさらに大正12年の辰野隆だから、要するに「文学科」などというものはごく新しいものだったのだ。ただし京都帝大では明治42年に上田敏が教授になっているわけで、これは狩野亨吉の革新的な人事だったわけだ。漱石が講師として教え始めた頃は敏も講師だったが、敏のほうがずっと有名だったという。
してみると、漱石は京都帝大教授の打診を受けて断っているけれども、仮に東京帝大で講師を続けていても、教授になれたかどうかは、疑わしいのである。しかもこの「講師」というやつ、どうも今でいう「非常勤講師」のようなものらしく、そうなると、「漱石が帝大を辞めて」云々という話は、どうも疑わしいのではないか。漱石だって、松山、熊本、ロンドンと流浪してようやく故郷に帰ったのに、今さら京都へなど行きたくなかっただろう。
そうなると、上田敏洋行から、明治44年に松浦一が講師になるまで、英文科では誰が教えていたのかというと、外国人教師のアーサー・ロイド、あるいはトランブル・スウィフトといったあたりらしく、四年間、英文科はお雇い外国人の時代だったわけだ。しかも市河は英文学ではなく英語学、東京帝大英文科が英文学者を助教授にしたのは、大正12年の斎藤勇と沢村寅二郎が最初で、京都帝大は既に厨川白村がいたのだから、いかに東京帝大が文学研究に熱心でなかったか、よく分かる。
今の東大英文科にも外国人教員枠が一つある。長いこと、ラフカディオ・ハーンの好きなジョージ・ヒューズ先生が教えていて、私も授業に出たことがあるが、今はスティーヴン・クラーク。この人は阪大時代に一緒だった。パーティーの時など、嫌煙家に遠慮して片隅で二人でタバコを吸ったりしていたが、クラーク私のことを覚えているだろうか。