中野好夫の処世術

 市河三喜中野好夫が論争をしたことがある。二人とも東大英文科教授だが、市河は英語学者で、日本人で初めて東大英文科の助教授になり、1946年に定年退官している。没後「市河賞」が設けられ、英語学の新人にとっては名誉ある賞である。さて、1948年2月の『英語青年』で当時45歳の中野が、戦時中自分らは軍部に反対もできず情けなかった、だから若者は先輩など尊敬しなくてよい、と書いた。すると市河が、4月号に「英語研究者に望む」という一文を書いて、その中で、中野君がこんなことを言っているが「屁でもない」とか「糞ミソ」とか、下がかった文言があるのはよくないと書いた。すると6月号で中野がこれに真っ向から答えて(「名指しで批判された」とある)、そんなことは市河さんよ、戦時中あんたが何をしていたかまず真っ裸にならなきゃダメだ、それにあなたの学者ぶりたがりは何だ、と痛罵したのである。これは『資料日本英学史 2 英語教育論争史』(大修館書店)に載っている。
 これは、山口昌男が、林達夫を囲んで大江とおこなった座談で言っていたのだが、18歳の山口が『英語青年』を読んでいた記憶で言っているから違っていて、市河が退官する時、中野に「君もあまり下がかったことは言わないように」と言ったのを中野が暴露し、市河が反論して中野が再反論したと言っている。
 それはともかく、先任教授を罵倒するとは中野好夫なかなかやるなと思ったら大間違いである。中野をかわいがって助教授にしたのは斎藤勇(たけし)で、のち孫に殺された人である。この人は英文学界の重鎮だが、かなりな反共主義者で、『イギリス文学史』という、東大英文科の院生なら誰もが読む本には、あれこれとマルクス主義の悪口が書いてある。チャタレイ裁判の時にも、検察側の証人で出てきて、『チャタレイ』の小説としての出来は良くないと言っている。ただしこれは伊藤整も、正々堂々としていて気持ちが良かった、と書いている。
 だから中野の後ろ盾は斎藤なのであり、1978年11月の『中央公論』では、齋藤と中野で「師弟対談」なんかやっている。齋藤てめえは戦犯だろう、なーんて言わないのである。
 斎藤の女婿が平井正穂で、東大英文科教授、長男が斎藤光で、これは出来のよくないアメリカ文学者だが東大教養学部教授だが、アメリカ学の泰斗・高木八尺の女婿、次男の斎藤眞は東大法学部教授で文化勲章受章の堂々たる学者、この眞の息子が勇を殺したのだが、精神病であった。
 さらに市河三喜の妻は、法学者・穂積陳重の娘で、三喜の娘の三枝子は、野上弥生子の三男・耀三に嫁いでいる。これはあまり知られない物理学者だが東大教授、その娘が長谷川三千子である。長谷川の若いころは、中野好夫は美濃部をかついだり中山千夏革新自由連合の親玉をやったりしていたので、「あれはおじいさんにひどいことをした偽善者」と思って育ったと、こういうわけである。なお斎藤勇は角田柳作に教わったことがあるが、この角田が、ドナルド・キーンの師匠である。ところで私はこの対談で、中野の二人目の妻が大槻文彦の孫だと知ってたまげたのだが、文彦には実の娘二人と、兄修三の息子茂雄を養子にしたのとがいるが、誰の子かは分からない。