「バルバラ異界」とオカルト

日本SF大賞を受賞した萩尾望都の「バルバラ異界」四巻を読み終えた。「フラワーズ」連載だが、私は15年以上「プチフラワー」を毎回読んでいて、これがなくなって「フラワーズ」になってから、読むのをやめていたのだ。特に萩尾の前作「残酷な神が支配する」は辛かった。
 さて「バルバラ異界」は、まあ、普通のSFで、「ドグラ・マグラ」の末裔のようなものだ。特に面白くはない。しかし気になったのは、その「オカルト風味」である。「サイエンス・フィクション」といっても、もともと、オカルト・フィクションとの区分は曖昧だ。常に科学的根拠が示されるわけではないし、ここでも、記憶が子孫に遺されるからくりは説明してあるが、夢の中に入るからくりは全然説明されていない。中でも、個人が消えてみなの心がひとつになる、というアイディアが出てくるのが気になった。
 私は、1999年11月の「諸君!」に、売春をすると自我が融合するから危険である、と書いた。これは、当時メール交換をしていた宮崎哲弥氏から聞きかじった話を書いたのだが、雑誌に出ると宮崎氏から抗議が来て、自分は自我が融合するからいけないなどとは言っていない、全部融合してしまえばいいくらいだ、というようなことを言われたと記憶する(違っているかもしれない)
 そこで単行本に収録する際には書き直したが、「バカのための読書術」で、携帯電話で常に他人と繋がっていなければいられない若者を批判した際に、またしても、自我の境界が曖昧になる、と書いて、全員が融合するならいいが、とした。すると当時、ネット上で、この文章を読んで鮮やかなイメージが広がってうっとりした、というようなことが書いてあった。
 今にして思えば、自我が融合するだの境界が曖昧になるだの、というのは、心理学的に記述できる現象とは思えないし、単なる対他者関係における妄想だろうと思う。
 しかし、どうもこの、あらゆる人の心が融合するという、それは多分「幼年期の終り」の結末みたいな現象に、ひどく関心を持つ者がいるようだ。「新世紀エヴァンゲリオン」映画版のでっかい綾波レイもそうだったらしいが、私は全然分からなかった。
 要するに私には、すべての人の心が融合する、という「理想」が、どうして理想なのか、分からんのである。たとえば絶滅寸前の種がいて、かわうそがこの世に一匹しかいなくなる、とか、そういうことでしか、それはないだろうと思うのである。
 さて、私が大学院生だったころ、駒場の助手で平山朝治という人がいて、西部先生の授業によく随行していた。この人は当時二冊くらい本を出していて、私はその一冊「社会科学を超えて」というのを読んだ。帯には「浅田彰を超えると評される(東大院生)」とか書いてあった。今は筑波大教授である。
 その中に、すべての人の心は同一である、と論証している箇所があった。なんだか背理法を使っていたが、そうでないとすると他人の心は分からないことになる、すると不可知論になる、とかいうので、実は理解できなかった。オカルトであるから、論証などできるはずがない。
 国境のない世界とか、世界連邦とかいうのは、要するに戦争の代わりに地方軍閥の割拠の世界になるだけである。心がひとつに溶け合った人間というのは、一匹だけ残ったかわうそである。そうじゃなくて物理的には数十億人の人間がいて、その心が一つだとしたら、言葉が不要になるから、人類はアメーバみたいな原生動物になるだけである。
 萩尾はそういうオカルトを懸命に否定しているのだが、どうも読者の中には、こういうオカルトーーないしは、それぞれ別人だが「愛」で結ばれた人類とかいうイメージに魅惑される人種がいるような気がする。