先日の久保田競先生だが、その弟子に川島隆太という東北大教授がいるらしい。私も、名前は聞いたことはあるが、どういう顔かも知らない。どうやらこちらも、「大人のドリル」とか「脳トレ」でテレビに出て有名だった人らしい。そのかw島の『さらば脳ブーム』(新潮新書、2010)は、そういう「監修仕事」を、学問的じゃないと批判された川島が、半ばぶち切れて内情をさらけ出した本である。なかなか面白い。
その中に、久保田が監修して出している育児用品について、
残念ながら、これらの活動の根拠となる学術論文を私には(ママ)見つけることができないので、是非、どのような学術的根拠をもって乳幼児の教育システムを社会に提案されているのか、いつかお会いした時に直接お聞き(ママ)したいと思っている。もし何の根拠もお持ちでなかったら、「自分にも弾が跳ね返ってきますから弟子を後ろから撃ったりしないでください」と懇願したいと思う。
思わず苦笑してしまうが、おそらく久保田という人に直接訊いても、「何の根拠もない」と言うところまでいかず、懇願するにも至らないであろう。
人文学の分野では、こういうことは起こらない。学問的に疑わしい「論文」が多すぎるし、「まじめな」学者が、タレント的学者を堂々と批判する、ということ自体が、ないからである。
- 作者: 川島隆太
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/11
- メディア: 新書
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さて、先日の由紀氏との「天皇制論議」がまだ続いている。
由紀氏
ブログにアップしていただけまして、どうもありがとうございます。
最初の頃いただいたメールに「天皇制には私は反対です。ドイツやイタリアのような象徴大統領制にするのが至当でしょう」とありましたので、小谷野先生のお立場はそうかと思っておりましたが、そうではない、と。
すると小谷野先生は、天皇制は身分制を残存させることだから、なんとしてもいけない。廃止すべき。その後日本をどうするかについては今のところ留保、ということなのですね?
もちろん、それでもいいです。私は、再三申し上げたように、身分制より、この国の基本的な体制が気になりますので。
是非天皇制でなくてはならない、なんて理由はありません。同時に、是非共和制でなくてはならないという理由もないでしょう。また、そんな国家元首だか象徴だかは個人以外にすべし、というような立場も、そのほうが絶対にいい、と言うまでの説得力はないと思います。
もともと「絶対」はない世界ですから。相対的にみて、こっちのほうがいく分かましか、と思えることを各人が言うしかない。今回いただきましたメールの最後の部分や追伸には、私にはよくわからないところがあったのですが、何しろ、世の中にはいろんな考え方があるのがわかるだけでも、議論が起こるのはいいことです。いや、それこそ「是非必要」だと言えましょう。それで、今も現にこうしてやっているわけです。
しかし、天皇制の存廃は、どこかで決定しなければなりません。決定のやり方は、「国民の総意」どうたらはどうでもいいとして、憲法に書いてあるのだから、それに従ってやるしかない。この改正手続きは不適当だ、という場合でも、それを変えるのもまた憲法改正ですから、まず現行の手続きでやるしかありません。
もちろん、どう決定されても、何人(なんにん、及びなにびと)が支持しようと、それが絶対に正しいということにはなりませんから、意見を言うのは自由です。現在小谷野先生が天皇制の廃止を唱えているように、共和制か何かになった日本で、まだ私が生きていれば(その可能性は少ないと思いますが)、私は天皇制にもどすべきだ、と言い続ける、かなあ? 正直、確信はないです。
まあ、個人としての信念と、国民としての立場の違いはあってしかるべきと思いますから、日本に大統領が誕生したら、応分の敬意は表するつもりでおります。
もちろんこういうすべての大前提として「言論の自由」がなければなりません。それを圧迫しそうな独裁制は絶対にダメ、とは言えます。独裁者が君主でも、大統領でも、党の委員長でも。
最近ちょっと余裕がありませんのでこれにて今回は失礼します。聞かれたことについては後で必ず答えますので。
私
由紀さま
私は著書を送っておりますのに、なぜメールでのやりとりを根拠にするのですか。また、最後のほうでよく
分からないというのは、どこのことでしょうか。
法で天皇の地位を定めるのをやめれば、国際法的には共和制になる、と言っているだけです。なぜ言葉にこだわられるのでしょう。
個人と国民という分け方は変ですね。では日本にいる外国人はどうなるのでしょう。現実的かどうか、といえば、天皇制廃止は難しい、それも著書に書きました。
考え方は自由と言われますが、天皇制を認める以上、人を生まれで差別してはいけない、とは言えない。これは数学のような論理的帰結で、これは絶対です。
由紀氏
小谷野敦 様
毎度申しますように、私は現在とても余裕のない生活をしております。そのうえ、前回いただいたメールを読んでがっかりしてしまいまして。今回はそれへのお答えだけで失礼します。
>私は著書を送っておりますのに、なぜメールのやりとりを根拠にするのですか。
御著にはなるほど、「私は象徴大統領制を支持する」とは書かれていませんが、「支持しない」とも書かれていません。
その後の、メールではあっても、紛れもなく小谷野先生のお言葉に、「象徴大統領制にするのが至当と考えます」とあれば、そしてその後いかなる訂正もなければ、ああ、小谷野先生はそうなんだ、と考えるのが当り前ではありませんか。それ以外に取りようがありますか?
それとも、小谷野先生は、著書に書いたことは公的なものだが、メールは私信だから、何を書いても責任は取れない。そんなものを「小谷野敦の考え」などと言われては迷惑だ、とでもおっしゃるのですか? もしそうなら、こんなメールによる議論なんてまるっきり無意味だ、ということになります。
>なぜ言葉にこだわられるのでしょう。
例えばこういうのがよくわからない。前の文から推察すると、君主制か共和制か、ということについて言われているのですか?
もしそうだとしたら、それが単に「言葉」の問題ですか? 君主制をやめたら国際法上の定義では自動的に共和制になるとして、共和政というのは君主制以上に種々雑多です。それは御著にも詳しく書かれていることです。天皇制廃止論者の小谷野先生は、廃止された後、どういう国家体制が望ましいとお考えなのか、興味を持つのはこれまた当り前ではありませんか?
いや、それについては態度保留だ、ということなら、それでもいい、とも私は前回申しました。ちっともこだわってなんかいませんよ。
>個人と国民という分け方は変ですね。
これまた何が「変」なのかよくわかりませんが、手短に説明しますと。
私は日本国民ではありますが、小なりといえども、自分一個の生活と考えを持つ個人です。現に同じ日本人である小谷野先生とこれだけ意見が違います。私がどこの国に滞在していようと、亡命しない限り、私は日本の国籍を持つ、由紀草一という個人であることに変わりはありません。
言いたいことはそれだけです。
>これは数学のような論理的な帰結で、これは絶対です。
「絶対」は議論の対象にはならない。いや、できないことでしょう。
すると、私たちは何をしているのですか? 小谷野先生は、「議論が起こればいい」とおっしゃりながら、本当は何を望んでおられるのですか? それとも、「議論」云々もメールのやりとり上の言葉なんだから、根拠にしないでくれ、とでも?
「大いに議論しよう」などと言いながら、実際は自分の考えを絶対に正しいものとして他人に押し付けることしか考えていない人にはこれまで何度か出会いました。もし、残念ながら、小谷野先生もそのお一人なら、やはり議論は無駄だと考えるしかありません。
私
由紀さま
何を言っておられるのでしょう。私は天皇制を法で定めるのに反対だと言っているのです。それなら自然と共和制になる、それがどうなるか、までは議論していないではありませんか。由紀さんが、なぜ人を生まれで差別していいと考えるのか、それを訊いているのです。
先に私は、「フィクション」とは何かと訊きましたが、それへの答えもありません。
個人として、と国民として、が違うと由紀さんは言っているのですよ。それでは答えにも何にもなっていないではありませんか。個人として、と、政治家として、というなら分かります。あなたは日本にたくさんの外国籍の人がいるのを知らないのでしょうか。そういう人は、天皇制に対してどういう立場になるのですか。
絶対は議論の対象にできない、とはどういう意味でしょう。これまた分かりません。
押し付けてなどいませんよ。由紀さんが、自分は人を生まれで差別してもいいと考えている、と言えばいいだけのことです。