岡田俊之輔氏に答える

早大准教授・英文学の岡田俊之輔氏(1963年生)が「絶對者を戴く文化、戴かぬ文化――諭吉、カーライル、獨歩、他 『WASEDA RILAS JOURNAL第9號早稻田大學總合人文科學研究センター、2021年10月)で私の『宗教に関心がなければいけないのか』に触れているのを知った。以下のとおり。

無論、エイハブの形而上學的反抗もまた「クリスト敎的良心」の然らしめる所に他ならず、寺田建比古の言ふとほり、「被造界の最後の壁さへも突破して、神の深く祕められた本質へと肉迫しようとする、かくも深く宗敎的衝迫にみちた作品」(三二)、それがこの一大長篇小說の內實である事に疑問の餘地は無い。ところが不思議な事に、小谷野敦は自著『宗敎に關心がなければいけないのか』の第四章「文學と宗敎」に、「私は、ギリシア悲劇や、ジェイン・オースティンバルザック、ゾラ、メルヴィルヘンリー・ジェイムズなど、さしてキリスト敎と關係ない文學は好きなのだが、」と書いてゐる(一〇七)。他については今は問はぬとしても、メルヴィルを「さしてキリスト敎と關係ない」とする少なくともこの一點だけは全く理解に苦しむ。別に「宗敎に關心がなければいけない」とは言はないけれど、一體メルヴィルの何處をどう讀めば、こんな的外れの評言が出て來るのだらう。もしやこの「メルヴィル」とやらは、『モウビー・ディック』や『ピエール』や『クラレル』の作者ハーマン・メルヴィルとは違ふ誰か別の人間なのか。さもなくば『モウビー・ディック』を少年少女向けのリトウルド版か何
かで讀み、專ら手に汗握る鯨捕りの冒險譚として愉しみでもしたか。呵々。

 と言う。まあ確かにその通りなのだが、私はメルヴィルドストエフスキーやジッドのように、キリスト教抜きでは理解できない作家としてではなく『モービィ・ディック』を読んだのである。私の『モウビィ・ディック』の読解は女性嫌悪的なものとしてであり、『八犬伝綺想』に記してある。

 なお岡田氏は、「共和政治」というのが西洋の「天賦人権説」と不可分だとこの論文の冒頭近くで書いているが、そもそも堯舜の「禅譲」というのは、世襲制を否定した共和制の理想を語ったものではないのだろうか。なのになぜ東洋では平然と天皇や皇帝の世襲制をやっていたのか、私はこの点かねて疑問に思っている。

小谷野敦)