大江健三郎の「燃えあがる緑の木」第三部「大いなる日に」に、運動会の障害物競争を「野越え山越え」と改称したことに対して、読書会をやっているお母さんのサークルから、元の名前に戻せ、美しい日本語を守れという要請があったというところから、「障碍」とするのが正しいので、碍子というと白くてつるっとしているからイメージがいいのではないかとか、しかし「碍」の元の字は「礙」だから良くないなあとか、しかしそれは「さえる」と読むのだとか議論されている。
しかし「元に戻せ」と言う人は、まあいるかもしれないがあまり聞かない。厄介なのは「障害者」などと書くと文句を言ってきたり、校閲で修正したりする連中で、「障害物競争」が美しい日本語かどうかはともかく「障がい物」などという表記が醜い日本語であるのは確かである。言葉狩りをする連中というのは、もしかしてあの古臭い言語相対説、言葉を変えれば現実も変わるという過てる信念にとらえられているのではないか。
しかし大江のこの作、初めて読んだがエロい。もっとも私には大江の、キリスト教や西洋キリスト教文学へののめりこみはよく理解できないのだが…。
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52歳で、まだ旺盛な執筆意欲を持ちながら死ぬという、これは確かに哀しいことである。私は、抗がん剤治療が血液がん以外ではほとんど効かないことを知っていたから、つらい気持ちでブログを見ていた。だから、死去一ヶ月前に出た「遺作」を、傑作とか名著とか言いたくなる気持ちは分かるのだが、やはりそうは言えない。Kさんにはかねて、詰めの甘いところがあったのだが、それにしても、国文学界は冷淡に過ぎたろうとは思う。だが、『パンとペン』は、わりあい詰めの甘さがかなり出てしまった本である。実に面倒だが、これから逐一指摘することになる。
対象としている人物については、よく事実を調べている。だがたとえば、堺利彦が、女の不幸を描いた小説を書いている、だからフェミニストだ、という風に論じるのだが、女の不幸を描くのは、明治中期の通俗小説の常套である。あるいは、日露戦争に際して反戦を唱えることがいかに危険なことだったかは、昭和期の新聞を見れば分かる、などとある。だが、昭和の十五年以降の言論統制をもって、日露戦争の時代を判定してはならないのだ。夏目漱石は、日露戦争の勝利に浮かれる日本を「亡びるね」と、『三四郎』の広田先生に言わせている。与謝野晶子は「君死にたまふこと勿れ」で知られるが、それらは、いくぶんかは危険であっても、昭和十五年以降のそれとは、とうてい比較にならない。
あるいは堺が「ナツメ」という猫を飼っていたといい、そこから、漱石夫人の鏡子に関するデマが産まれたという箇所で、堺はこれを「夏目」ではなく「棗」だと書いている。しかしKさんは、その猫が飼われたのは、漱石の「吾輩は猫である」が『ホトトギス』に連載されて人気を博していた時のことで、とうてい信じがたい、という。だが、『ホトトギス』などというのは、俳句雑誌であって、のちの「朝日新聞」のような広く読まれるメディアではなく、とてもそれだけで堺自身の言を否定することはできない。
また、堺が若いころは遊蕩したが結婚しておちついた、ということに対照して、植木枝盛が廃娼演説をしながら登楼していたという話を持ち出すのはいいとして、幸徳秋水まで、登楼していたとして「言行不一致」をなじるのだが、幸徳は男女平等論者ではない。師の中江兆民は「男女異権論」というのを書いているし、ルソーそのものが男女平等論ではない。幸徳は、廃娼運動には反対だった。だから「言行不一致」ではないのである。
しかし、特に分からないのは、絲屋寿雄の『管野すが』への不思議な攻撃である。(つづく)