山川方夫と『洋酒天国』

作家・山川方夫(1930-65)は、江藤淳(1932-99)の親友だった。いずれも慶應出身で、山川は大学院に進んで小説を書き、『三田文学』の編集長をしており、江藤にも何か書くよう言った。江藤は漱石を書こうかと思ったが、英文学のほうにしようかと迷った。山川は、「やはり君は漱石を書けよ」と言い、江藤は漱石論を書いて、それで華々しく文壇にデビューした。
 少し遅れて、山川は芥川賞候補になるが、その時の受賞者は大江健三郎(1935- )だった。次も候補になったが、受賞作はなしだった。61年に三度候補になるが、この時も受賞作なし。山川は、どうも選考委員から嫌われていたらしく、売文業者などと言われたりした。確かに山川の小説は、純文学としてはスマートに過ぎ、巧みすぎた。山川秀峰という画家の息子で、お坊ちゃん育ちらしいところがあった。
 62年夏、江藤が米国プリンストン大学へ留学するころ、慶應の先輩の安岡章太郎の紹介で、山川は寿屋、のちサントリーの『洋酒天国』の編集長として勤めるが、一年ほどで辞める。この時の上司が山口瞳だった。それからまた芥川賞直木賞の候補になって落ち続け、65年、交通事故で夭折する。
 山川が死んだあと、山口は『小説新潮』に「シバザクラ」を書いて、山川を偲んだ。だが江藤淳はこれを、山川を揶揄したとみて、「山川方夫と私」(『歴史のうしろ姿』)に書いている。70年の山川の全集のものだ。
 これについては、以下の文章がよく引用してくれている。
http://d.hatena.ne.jp/qfwfq/20080330/p1
 確かに、山口は揶揄などしていないのである。江藤が怒ったのは、しかし理由がある。山口は、山川が勤務している最中に、直木賞を受賞し、山川が辞めた翌年にサントリーを辞めているのだ。「シバザクラ」はそのことを書いていない。山口は山川の四つ上だが、これが初めて書いた「小説」である。『江分利満氏の優雅な生活』は、とても、うまい小説とは言えない。私小説なのに、まるで雑文を並べただけのようだ。山川は、それが不満で、山口との間に間隙を生じたと思う。そして江藤はおそらく、それが川端康成のお膳立てであることを知っていた。江藤は川端を嫌っていた。
 山川は、それまで定職に就いたことがなかったが、江藤はそれが山川の持病であるてんかんのためであることを知っており、そのことをここで明かしている。小玉武は『『洋酒天国』とその時代』(筑摩書房)で、江藤の文章には事実誤認が多く、読んで複雑な気持ちになったと書いているが、これは良くない。事実誤認が多いなら、それをはっきり書くべきである。

1926 山口瞳

1930 開高健山川方夫
1932 江藤淳

1954−59 開高健、『洋酒天国』を編集。

1955 江藤、山川の勧めで『三田文学』に「夏目漱石論」を連載。
1956年 『夏目漱石』刊行。

1958 山川、上下二度芥川賞候補、山口瞳が寿屋に入り『洋酒天国』を編集。

1961年 山川、上半期芥川賞候補

1962年 6月頃、山川、『洋酒天国』の編集に参加。
1963年1月、山口、直木賞受賞。
   3月、寿屋がサントリーと改称。
   5月、山川、サントリーを辞める。
   
1964年(63年下期)山川、直木賞候補
   3月、山口、サントリーを退社。
   7月、山川、芥川賞候補

1965年2月、山川交通事故死。
   7月、山口「シバザクラ」『小説新潮