凍雲篩雪

小保方晴子と「魔女狩り

 私は最近の、「SEALDs」とか「SMAP」とか、アルファベットで書かなければいけないという風潮が気持ち悪い。女性雑誌名で、アルファベットの大文字と小文字が混在しているのなどは、校閲が直すからいいとして、一般人が書く際にまでこんな書き方をする必要はあるまい。そこで「スタップ細胞」と書くことにする。
 スタップ細胞事件から三年、手記『あの日』から一年近くがたつが、相変わらず「小保方叩き」に精を出す人びとというのがいる。
 高橋昌一郎國學院大學教授が『週刊新潮』で小保方叩きをした際、私は批判したが、それが『反オカルト論』(光文社新書)になると、大幅に書き直されていたが、相変わらずろくに調べもせず私をバカにするものだった。それも批判したところ、先ごろ、『理科の探検』(rika tan)という季刊雑誌の「ニセ科学」特集に寄稿して、また私に触れてバカにしていることが分かった。高橋は私が『あの日』に「大いに感動」したなどと書いているが、そんな事実はない。
 調べると、この『理科の探検』というのは、法政大教授の左巻健男という人が編集長である。あとで、この左巻だと分かった人物のツイッターアカウントが、これを引いて「小谷野敦氏のレベル」などと書いていたから、どういうつもりか、結構苦労して電話がやっとつながったが(高橋にはツイッターで話しかけても答えないから、とうていまともな相手とは思えない)。
 私のほうで訊いたわけではないのだが、左巻は、高橋の意見に賛成だという。そこで、『あの日』は読んだのかと訊いたら、読んでいないと言う。それでは話にならない。そのあとはもう言い争いである。『あの日』を読んだら、複数で研究していたのが、若山照彦が途中で逃げ出してマスコミに情報をリークしていたことは明らかで、普通若山が何も言わないのは都合が悪いからだと思うだろう(左巻は読んでないんだからしょうがないが)。
 左巻はひたすら小保方氏の人格攻撃に終始し、「大学院生の頃から不正をやっているようじゃしょうがない」と言うから、「教授になったらしてもいいんですか」と訊いたら口を濁していたから、どうやらいいと思っているらしい。なお博士論文において起きたのは「間違い」であって不正ではない(後記佐藤貴彦著に詳しい)。
 若山については、「じゃあなんで山梨大学の教授をやってられるのか」などと言うが、大学教授がこの程度のことで解雇されたりするはずがないのである。なお若山は「厳重注意」を受けている。いったいこの連中は若山と何かつながりでもあるのだろうか。『STAP細胞に群がった悪いヤツら』を書いた小畑峰太郎も、『あの日』が出たあと『新潮45』で小保方を罵倒していたが、著書のほうは、なぜか若山への追及だけ甘かった。
 あとは高橋と同じく、若山も笹井も小保方に騙されたんだ、と言うのだが、優れた学者がなんで三十そこそこの学者に騙されるのか。高橋は小保方を魔女のように言っているが、それこそオカルトではないか。大宅壮一ノンフィクション賞をとった須田桃子の『捏造の科学者』も、小保方が「未熟」「科学者としての才能がない」としているが、それなら一体どのような手口で若山や笹井を騙したというのか、その点も説明されていない。
 疑問は佐藤貴彦の『STAP細胞 残された謎』(パレード、二〇一五)に余すところなく、冷静かつ科学的な立場で書かれている。私は高橋に、これを読んでくれとツイッターで言ったのだが、返事すらない。佐藤は続編『STAP細胞 事件の真相』(同)を、高橋の本の出たあと十二月に刊行し、『あの日』をも踏まえて、理研の中に、竹市雅俊と笹井を追い落とそうとする勢力があったと推測しているが、高橋はこれも読んでいないか、読んでも都合が悪いから知らぬふりをしているのだろう。
 『あの日』を読めば、『ネイチャー』などの雑誌に論文を受理されるために、けっこう危ない状態で論文を提出していることが分かる。つまり先を越されないための競争があって、小保方もその流儀に巻き込まれたということだろう。「マスコミを利用した」とか言う人もいるが、記者会見はしばしばやっており、それを「若い女性学者」ということで大々的にとりあげたのはマスコミのほうである。
 何ゆえ、自分とは直接関係のないことで、これほど「小保方叩き」に熱が入り、かつ関連文献すら読もうとしない不誠実な態度をとるのか、まったく不思議である。
 つまりこれは「魔女狩り」と同質のものを持っているのである。そこにあるのは、徹底した女性嫌悪である。特に、若くてかわいらしい女性が、当初はノーベル賞ものかと言われた科学的発見をしたということが、潜在的に彼らの憎悪の対象であって、それがたまさか失墜したために、これあるかなとばかり叩き続けることに、恐らくはある種の快楽を覚えているのである。もちろん、それは「いじめ」の意識とも同じである。
 昨年は、夏目漱石没後五十年、今年は生誕百五十年ということで、漱石関係の出版物が目だったが、「朝日新聞」では、『こゝろ』から始めて漱石作品を再連載した。だが『こゝろ』というのは、私が『夏目漱石を江戸から読む』(中公新書)で指摘した通り、恐るべき女性嫌悪思想の小説である。「先生」と「K」という友人が、「静」という女の存在によってKの自殺という形で関係を断たれた、そのことの恨みの上に成り立っているのである。
 スタップ細胞事件も、考えると、若山、笹井、小保方という三人がいて、笹井が自殺している。世間は死んだ人間は叩かないから、笹井を自殺に追いやったのは小保方だというストーリーで小保方を叩いている。女性嫌悪の根底にあるのは、男同士の絆を侵害するという考え方で、私のほかに、漱石作品のホモソーシャリティーと女性嫌悪を指摘しているのは、佐伯順子くらいで、こんな悪質な女性嫌悪小説が「朝日新聞」に堂々と再連載されるのは恐ろしい話である。