山田太一のドラマ『男たちの旅路』のスペシャルで「戦場は遥かになりて」というのがあった。1982年。オープニングから、当時大流行の「宇宙戦艦ヤマト」のシーンが挿入される。新入りのガードマン(無名で終った役者)がやたら意気がっているので、例によって鶴田浩二の吉岡司令補が、「君たちは弱いんだ」「かっこよくあろうとするな」と説教、戦争体験を語る。(なおDVDが出ていたので確認したら、ヤマトのシーンはドラマの中味に差し替えられていた。恐らく松本零士から使用を断られたのだろう)。
しかし、ヤクザものとの乱闘になってその若いガードマンは頭を鉄棒で叩かれて死んでしまう(もう既に結構無茶な展開である)。そのガードマンの恋人が真行寺君枝で、これが妊娠していて、吉岡は男の故郷である小笠原の父島まで遺骨を持って真行寺を連れて行く。男の父はハナ肇で、特攻隊時代の吉岡の部下である。ところがである、真行寺が妊娠中毒になり、島の医者は、こりゃ東京へ運ばなきゃダメだ、と言う。吉岡は、海上自衛隊岩国基地から緊急飛行艇を呼び、飛行機は着水することになるが、暗いので難しく、「珊瑚の海へ着水できるわけがねえ!」などとハナが言う。吉岡は、漁民たちに舟を出して海上を照らさせるのである。もっとも、飛行機が到着した時には夜が白々明けになっていたのだが・・・。
当時、大学一年だった私は、「かっこいいじゃねえか、鶴田浩二」と思った。ヤマトを使ったのは、若者の間での、そういうかっこよさへの憧れが戦争につながるのではないかという警鐘である。実際『さらばヤマト』の最後なんか、特攻隊のようだと言われていたし。なのに、その吉岡がかっこ良くあってしまうことによって、見事に破綻した作品になっていた。山田はこの作で藝術選奨文部大臣賞を受賞した。
ハドソン川で一躍英雄になった男の話で、ふと思い出した。かっこ良くないことの大切さを伝えるのが、いかに難しいかという話である。
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大河ドラマはまたしてもお笑い番組と化すのか? なんで「天正元年」に織田信長が岐阜城で「天下をとるのはわしかもしれん」みたいなことを言っているのだ。とっくに足利義昭を奉じて入洛しているではないか。別に岐阜にいたっていいが、第一「天正元年五月」とか言っていたが、それは元亀四年の間違いだろう。しかも吉川晃司は前にも義昭役で出ていたが、下手にもほどがある。(義昭は『秀吉』の玉置浩二だった。歌手には弱いのである。二人ともどういう歌手だかよく知らない)
直江山城はこの年、14歳であるぞ。見えない。そして常盤貴子36歳! まるで「はいからさんが通る」だ。
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田中貴子と大塚ひかりの劇的和解。
http://d.hatena.ne.jp/maonima/20090117
田中が送ってきた論文というのは、白洲正子を批判した「男から生まれた女」(井上章一編『性欲の文化史2』講談社選書メチエ)である。なるほど白洲正子は学問的に見るといい加減である。だがエッセイストが学問的にいい加減でも批判しないというのが学者社会のお約束である。しかしそのお約束は、そのエッセイストがあまりに影響力が大きい時は破ってもよいはずである。
さて田中は、白洲の『両性具有の美』の新潮文庫に付せられた大塚さんの解説に触れ、そのような白洲批判の嚆矢として評価しつつ批判する。その田中文中には、白洲が佐伯順子の『遊女の文化史』を高く評価した文章も引かれているのだが、田中はここで、佐伯著が学問としてどうか、という問題に触れるのを避けてしまっている。むろん本心では、非学問の最たるものと思っているに違いないのだが、白洲のこの文章が載ったのは『文化会議』という、同名の雑誌がいくつかある中で、保守的東大系文化人が作っていた薄い雑誌(今は廃刊)の1991年6月号だが、この号には佐伯の「女性の時代を問う」も載っており、さながら佐伯順子特集の観を呈しており、後に発見して私は嫉妬に苦しんだものである。
その後、佐伯さんが白洲正子について書いていたのは、『鳩よ!』だったか・・・。中瀬ゆかりの紹介で白洲に会ったことがあり、自分が『美少年づくし』を書いたので白洲は触発されて『両性具有の美』を書いたのではないか、などと書いていたが、今回田中によって、1950年代から男色に関心があったことが指摘されており、佐伯の自惚れだったことが分かるわけで、田中は密かに佐伯さんを撃っている。あの当時の白洲人気といったら凄いもので、だから私は密かに白洲に批判的だったので、大塚さんから白洲批判を聞いた時は、同志を見つけたように思ったもので、それからほどなく、『両性具有の美』の文庫版解説を頼まれて、批判的でもいいと言われた、と聞いた時は、そりゃこそ、今川義元が休憩していると聞いた織田信長のように、やれやれ、とけしかけたわけである。
佐伯さんは、いわば「白洲正子的なもの」のミニチュアであるから、田中さんは白洲批判を通じて密かに佐伯さんをも撃つつもりなのであろう。えい、えい、おー!
しかし、田中の大塚批判には、納得の行かないところもある。大塚が、「この人、夫以外の男とセックスしたことないんじゃないか」などと書いたのを、論拠がない井戸端会議的な方向へ行っているとしているあたりで、しかし私はこの文などは白洲の本質をよくつかまえていると感じたものである。私も、まあこれは伝記を調べた上でのことだが、夏目漱石は妻としかセックスしたことがないのではないかと思っている。
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「ディレッタント」という言葉は、悪口として使われる。「知識は豊富だが学問として統一性がないアマチュア」という意味である。しかし、これを自卑のつもりで自分に使う人がいるけれど、悪口だから自卑に使えると思ったら大間違いである。知識豊富という意味も含むのだから。これはだから、悪口にしか使えない言葉であって、自称はできないものなのである。
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『カムイ伝講義』の書評があちこちに出ているが、書評を読んでもいかにも面白くなさそうなんだよね。アマゾンのレビューはないし。あと佐高信の新刊の書評も出ていたが、紫綬褒章受章者と対談本を出して『金曜日』の編集委員にしたあたり、若い頃同僚と駆け落ちした佐高、さては女に甘いな。
(小谷野敦)