沖浦和光が死去した。沖浦は元英文学者で、のち日本の歴史・民俗の研究者になった。九年前、同氏が『「悪所」の民俗誌』(文春新書)を出した時、遊女は聖なるものかどうか論争があるが、私は聖なるものだと思いたい、今度はそういう本を書きたい、としていた。私は同氏に手紙だったかはがきだったか、便りを出して、それは間違いであるからやめてほしいと書いた。来た返事ではまだ迷っているようだったが、どうやらやめてくれたようである。
 しかし、『読書人増刊号Ponto』第三号に掲載された佐伯順子下川耿史の対談は、十六年も前から私が批判している前近代幻想に彩られたひどいものであった。佐伯も、私に批判されてからは次第にこういうことを言わなくなっていたのだが、対談などだと地金が出るらしい。前近代の自由な性が近代によってなくなってしまった式のバカげたもので、実際には現代でも十分自由だと思うのだが、こういう前近代美化は徹底的に否定したはずだが知らないのだろうか。
 その佐伯の新著『男の絆の比較文化史』(岩波書店)は、別の意味で感心しなかった。セジウィックは、ホモソーシャルにはミソジニーがついているがホモセクシャルはそうではない、と言い、だがこの両者の境界は曖昧だとしたことで、最初のテーゼはすでに崩壊している。佐伯はこの崩壊したテーゼをもとに議論しているから、最初から崩壊している。部分的に見るべきところがあるかと言うと、西洋について概観的な検討が乏しい。あと『坊っちゃん』など漱石作品における女性嫌悪は、私が『夏目漱石を江戸から読む』(中公新書)で徹底的に論じたので、参考にしなければ書けないはずだが、この人は一九九五年以降決して私の書いたものは参考文献としてあげない。個人的事情で学問をしてはいけないと思う。
小谷野敦