大塚英志、再び

 なぜ『現代詩手帖』など見ているかというと、大塚英志の連載を見ているからなのだが、大塚が執拗に「蒲団」を批判するのは、モデルとなった岡田美知代の立場に立つからだということが分かった。そして、「書く」「書かれる」は権力関係である、と言い、では書き返せばいいではないかという反論を予期したのだろう、こう書いている。

ぼくは自分が「書く」ことを選択した以上、「書かれること」は当然、受容しなくてはならないと考えるが、それに対して「書き返す」ことはしない。ネットでの互いの「書き返し」と同様に文壇や論壇でさえ「論争」が殆ど成立しないのは
「書かれたこと」そのこと自体に人は決定的に傷つくからだ。「『妹』の運命ー柳田國男新体詩」8『現代詩手帖』2007年6月)

 相変わらず粗雑な文章の上、まるで全共闘世代のようなものの考え方だ。それに論争が成立しないという意味が分からない。「傷つく」という言葉のこういう使い方が私はいかにも戦後的な脆弱さを感じて嫌なのだが、あえてそれを使うなら、大塚は、「無視される」ことによっても人は傷つくのだということに気づいていない。大塚の無視がどれほど笙野頼子を傷つけ、遂に気が狂うに至らしめたか、大塚には分かっていない。
 矢川澄子が自殺する直前に、澁澤龍彦のムックが出て、その澁澤年譜に、矢川と同棲していた事実がまるっきり抜けていた。それが自殺の引き金となったのではないか、と言う人もいた。「書かれないこと」によっても、人は時には十分、決定的に傷つくのである。