単行本では180ページちょっと、『新潮』2013年2月号に一挙掲載され、三島由紀夫賞候補になったが落とされて、高村薫らの選評に黒川が『新潮』誌上で異議申し立てをした。その時私は黒川に、ちょっとおかしいんじゃないかと言ったが、これは果して「小説」か。ロシヤのサンクトペテルブルクで日本文学を学ぶ学生相手の日本語の講演というテイをとり、冒頭で黒川が当時発見した漱石の「韓満所感」を紹介しつつ、安重根が伊藤博文を暗殺した話から、大逆事件へと話がずれこんでいき、おおむねは幸徳秋水と菅野スガの話である。ところが最後に学生の質問に答えて、幸徳・菅野らは暗殺未遂の容疑で死刑になったが、実際に暗殺をしたのは伊藤博文(塙忠宝を殺した)と安重根だと変な種明かしをしている。
別に幸徳や菅野に激しく思い入れした作品ではない。黒川は鶴見俊輔の弟子にあたり、父親の代から『思想の科学』と関係の深い人だが、蓮實重彦は鶴見について、一所懸命左翼でなくあろうとしていると評していたが、確かに黒川も、ここで一所懸命左翼でなくあろうとしているように見えた。
エリセーエフの話や漱石、西園寺公望、大山巌など、当時海外へ行った人の話が多く、比較文学的エッセイといった趣きもある。黒川という人は大学教員ではなかったし、世界各地を旅行したり調査したりする費用はどこから出ていたんだろうということが気になった。しかし作品として迫ってくるものの乏しい本であったのは否めない。
(小谷野敦)