黒川創の反論に納得せず

 『暗殺者たち』で三島賞候補になって落とされた黒川創が、『新潮』七月号の選評を見て、「基本的な事実認識の誤りが複数あり」ということで八月号に「三島賞「選評」について思うこと」という三ページの文章を載せている。私はこれを読んで、怪訝の念に堪えなかった。
 『暗殺者たち』は、1910年に起きた大逆事件伊藤博文暗殺事件を中心としたノンフィクションである。黒川はこれより先、夏目漱石韓国併合について書いた文章を新発見したということで新聞ネタにもなっている。だが選考委員のうち、町田康高村薫が、これらの事件はこれまで調べ尽くされてきたので、新しいことはないのではないかという意味の選評を書いた。
 黒川はこれが事実誤認だという。「今回の拙作に関して言うと、海外資料との比較考証の成果などは、三島賞選考委員の方たちも含め、どなたもご存じではないことのはずです」として、大逆事件の容疑者の一人である大石誠之助が、ドストエフスキー作として発表した「僧侶と悪魔」が、幸徳秋水が訳した「悪魔」と同一で、しかもドストエフスキーの著作一覧に該当する作がないと述べる。
 また伊藤暗殺事件については、「いくらかの調書・公判記録や概説書のたぐいを別とすれば、まともな『研究』書の一冊も日本では刊行されていない」と述べている。
 なぜ「別とする」のか。たとえば佐木隆三伊藤博文安重根』(文藝春秋、1992、のち文庫)や中野泰雄『安重根伊藤博文』(恒文社、1996)があり、上垣外憲一『暗殺・伊藤博文』(ちくま新書、2000)がある。上垣外は、一応は博士号もある学者である。ほかに記録、調書は実際たくさんあるので、黒川が「研究」というのは、学者が書いて注をつけて岩波書店吉川弘文館から出さないといけないという意味なのか。また先のドストエフスキーの作について言えば、自らの新発見と称するものの最大なるものが、たったそれだけのことなのかと拍子抜けを感ぜざるを得ない。
 だいいち、三島賞は小説の賞であるはずで、創設当初は評論も対象としていたが、小林秀雄賞が出来た時点で、小説のみ対象とすることになったはずである。ところが最近、大沢信亮の「批評」が候補になったりしているが、新潮社編集部では、その理由を明白にしていない。事実のみ書いて小説として通用した例としては、佐木隆三の『復讐するは我にあり』が直木賞をとった例があり、あの時もさまざまに言われたものだが、それは措くとして、この程度の「新発見」をもとに、町田や高村が「事実誤認」をしたと言われる筋合いはまったくない。
 そのレベルの「新発見」を評価してもらいたいなら、黒川は論文を学術雑誌に載せて学者の評価を期待すればいいのであり、一介の作家に評価を期待するのはおかしいし、現に自分でも、選考委員は知るはずがないと言い切っている。大学教員ではないから原稿料の出ない論文を書いてはいられないというなら、私だって同じ立場である。
 どうも私は黒川に信用ならないものを感じるのだが、というのは黒川はこれより前に『きれいな顔 西村伊作伝』を出しているが、西村伊作伝は加藤百合がとうに書き、ついで田中修司が博士論文を出している。
 いかなる研究者も、自身の研究については、従来の研究に新たなものを付け加えたと自負するものだが、それはたいてい、他から見たら小さなことがらでしかない。たとえば私は『谷崎潤一郎伝』で、谷崎が「大谷崎」と呼ばれるのは、弟の精二と区別するためだとしたが、今なお無視して、偉大だという意味で「大谷崎」と書く人があとを絶たない。反論があるならすればいいのだが、それもない(もっともこれは丸谷才一が『軽いつづら』でも書いていた。ただし丸谷は「偉大だから、あるいは精二と区別するという理由も、というもの)。また、従来の年譜類がみな、谷崎が昭和十二年、帝国藝術院会員になり、十六年に日本藝術院会員になったと書いてきたのを、後者はまったくの虚誕であると明らかにしたのだが、これをもって私は、基本的なことがらすら明らかにされていないと獅子吼してもいいのだろうか。黒川は『新潮』編集長の矢野優に相談してこれを載せたというが、『新潮』編集部は私に一行の文章も書かせないし、私は三島賞も小林賞も候補にもなったことがないのだが、選評に文句が言えるのは候補になった者だけとはこりゃまたいいご身分ですなあと言うほかないのである。
小谷野敦
なお漱石の文章について一言すると、漱石韓国併合に対して特に批判的ではないことを漱石への失望とともに報道するものがあったが、漱石はもともと左翼ではないから当然なのである。大逆事件の際にも、「イズムの功過」などを書いて、自分は社会主義者でないということを暗に示した、と私は「夏目漱石の保身」に書いておいた。だいたい伊豆利彦あたりが『漱石天皇制』などという本で、漱石をむりやり反天皇主義者に仕立て上げたのがいけないのである。