凍雲篩雪(67)『砂の器』の代作者
一、私が所属している日本文藝家協会の『文藝家協会ニュース』七月号の「編集後記」に、「忖度」という言葉を論じて、「日本には「世間」はあるがまだ西欧的な「社会」はないし、法より隠れた世間のおきてが上位にあるのが現実だ」などという俗流日本文化論が書いてあってげんなりした。九州工大名誉教授の佐藤直樹の受け売りだとあるのだが、多くの「日本文化論」が学問的基礎を持たないものであることは私は何度も言っているのだが、困ったことである。著者はさらに「忖度」について、通訳が「直接言い換える言葉がない」と言ったというのだが、それは「read one's mind」で、単なる通訳の無能だろう。「奥」と署名された筆者は「世間の常識や世間のルールから逸脱したらいけない」というのが日本の掟だと言うのだが、そのようなことは西欧にだってあるので、西欧で二年くらい暮らしてみればそんなのが幻想であることは分かるはずなのに、あいかわらずこういう俗流日本文化論がはびこるのはどういうわけか。別に西欧へ行かなくても、西洋の映画や小説を読めば分かるはずである。
私のこうした日本文化論批判に対しては妙な抵抗があって、しかし日本で日本文化論が多いのは事実だと言う人もいる。岩波文庫の、ゴルドーニ『抜け目のない未亡人』の訳者・平川祐弘は解説で、ここでは西洋各国の比較文化論が述べられていると縷々解説しているが、西洋各国は同じ地域の国々だから、それほど本格的なものにはならないのに対し、日本はアジアでいち早く近代化をなしとげ、先進国に入っているから、おのずと西洋に目が向いて、日本と西洋の違いを言い立てたがる、というだけのことだ。インドやエジプトも近代化はしているが、まだ先進国に入ったとは言い難い。
もしかすると、日本には「世間」があるとか言っている人は農村地帯などで育ったのかもしれない。だがそれなら、「田舎と都会」の対比になるはずで、「日本と西洋」にはならないだろう。
二、河出書房新社の『文藝』秋号の座談会での佐々木敦の暴言が目に余る。私は『週刊読書人』で、前回の芥川賞について小澤英実と対談した時に、受賞者の山下澄人に関する佐々木の友人ゆえの仲間褒めと、受賞作「しんせかい」が私小説ではないとする僻論を批判し、あわせて『群像』連載の「新・私小説論」での、生成文法も分かっていない言語学者の『日本語に主語はいらない』などというトンデモ本を紹介していると言ったのだが、それへの意趣返しであろう。今や「文学=私小説」だなどと、この私小説迫害の時代に何をトボけたことを言っているのかというようなことを言い、事実の強みというのを何やらいやらしい口調で揶揄し、栗原裕一郎もこれに付和雷同している。さらに佐々木は「私小説なんかどこにもない。暴露だけだ」といったやけくそ私小説批判までしている。私に異論があるならいくらでも反論の場はあるのに、私の名は出さずにこういう支離滅裂な私小説への嫌がらせをするというのは本当に卑怯なやつだ。
しかし現在の文藝雑誌では、佐々木のような文学の素人が、SF好みの時世粧(しかしSFに人気があるというのは一部のSF評論家の錯覚に過ぎない)にあわせてか、ないしは本格的な文学批評など書かれて、文壇の権力者(たとえば芥川賞選考委員)が批判されたり、文藝誌として推したい新人作家(たとえば宮内悠介)が批判されたりしては困るから、佐々木のような素人に全文藝誌が連載を持たせるあたり、文壇の立ち腐れ状態を示していると言ってよかろう。
とはいえ、「文学」が終わろうとしている現在、この先良くしようというより、現時点での保身をみなが考えるというのは仕方のないことである。芥川賞は、大方の予想を裏切って沼田真佑「影裏」が受賞したが、この作品は文学のどんづまり感、つまり文学の終わりを表しているといえる。東大などで、「文学」を志望する学生は減ってきているし、私立大の文学科は、文学になど関心のない学生のふきだまりである。
この『影裏』も、受賞して急遽刊行が決まったようだが、文藝出版社はもはや純文学の刊行を手控え始めている。では娯楽小説やマンガが売れているのかというと、私はこれも先行きは暗いと思う。十九世紀以来続く作りものの物語というものが、世界的に耐用年数を過ぎつつあるのだ。それが一番分かっていないか、認めるのが怖い、という状態なのが、大学の文学研究者たちではないかと思う。
三、水野忠興の『秋の蝉 砂の器は誰が書いたか』は、近代文藝社から出ているから自費出版かもしれない。著者は一九四二年生まれの精神科医だが、叔父に編集者で芥川賞候補作家の庄野誠一を持ち、その庄野が松本清張の『砂の器』を代作したのではないか、というのが題名の由来である。庄野は戦前、文藝春秋社の編集者で、『文學界』の編集長も務めたが、そのかたわら小説も書き、横光利一に師事していた。戦後、横光が没すると、「智慧の輪」という小説で、妙にイライラした横光の姿を描き出し、横光門下の中山義秀らの怒りをかったというが、義秀が怒ったのは、自分が真杉静枝と結婚したことで周囲を心配させたと書いてあったからだろう。この作品は、集英社の「日本文学全集(豪華版)」」の第八十八巻「名作集(三)」に入っている(「豪華版」でないほうにはない)。
その後庄野は筆を折り「ゴーストライター」になったという。そして、『砂の器』は、途中から頼まれたという話がありながら、どうも全体が庄野の代作ではないかと仄めかされてもいる。庄野は事件の発端である蒲田操車場のそばに住んでいたとか、ハンセン病療養所の全生園を訪ね、『小島の春』の著者である小川正子と文通していたともある(本文では豊田正子とあるが、早く死んだというから小川の間違いだろう)。
著者の祖父は庄野欽平といい、嘉永五年から大正八年まで生きた強欲な男で、最初の妻エツとの間に理一、春三の二人の男児をもうけ、理一は戦後最高裁判事になるが、西尾末広から名誉棄損で訴えられたため十一か月の最短記録で退任した男である。二番目の妻キクが生んだのが、著者の父種一で、キクの実家水野家の養子になった。徳川時代に多かった武士水野家のうち、松山藩士だった水野忠明の娘で、その甥忠丸の娘が風間氏と結婚して生まれたのが画家の風間完と十返千鶴子だという。種一の下に寿尾、光隆、義種、寅雄といて、末弟が誠一で、理一と誠一の異母兄弟は二十一年が違う。誠一の次男が、『文學界』編集長を務めた庄野音比古である。
描かれるのはこの奇妙な一族で、かなり読みにくいのと、著者自身が大学を転々として横浜国大経済学部を出てから二十六歳で横浜市大医学部に入り直した人であり、その経緯が詳しく書かれていないのが欠点である。種一は欽平を憎み、著者は種一を憎むという父を憎む血脈があり、さらに欽平から梅毒性の眼病も誠一はもらっていたらしい。
のみならず、誠一は、「U女史」の「女豹」という新聞連載小説も代作していたらしいのだが、これが見つからない。宇野千代だろうと見当はつけたが「全集」の年譜にも載っておらず、川口則弘さんに相談したら、一九五九年から六○年まで「報知新聞」に連載されて、単行本にもならなかったものであることが分かった。代作だから単行本にせず、年譜にも記載がないのだろう。