変な編集者

14日に、祥伝社の堀裕城という編集者から突然メールが来た。「サピオ」で私が取材を受けて書かれた「朝日新聞」のお詫び記事に関して、一冊にする予定はないかというのだ。私は、いや別にありませんが、どういう方向で本にするんですかと訊いた。すると「頭を整理しますのでお待ちください」と返事が来たから、何も考えてなかったのかい、と思った。
 20日になってメールが来て、こんなものであった。

小谷野敦先生

朝日の「訂正・お詫び」記事に触れた“一般人”(“朝日的知識人”ではなく)がどういう思考の経路をたどるだろうかと、推測してみました。

「朝日のお詫び記事が増量されているなあ」

「やっぱり慰安婦記事の問題から始まってるんだろうか?」

「まあ、ほんとうに心から反省してくれればいいんだが」

「それにしても訂正とお詫びが多いなあ」

「よく見ると、“訂正”と“訂正して、おわびします”に分類されている」

「とりあえず謝っておいたというようなものも多い」

「どれをお詫びして、お詫びしないかは何を基準に決めているんだろ?」

「かえって火に油を注ぐような訂正もある」

「訂正とお詫びの回数を増やせば、信頼感は増すものなのか?」

「クレームがあったから、とりあえずお詫びしておこうみたいな」

「そもそも誰に謝ってるんだ?」

「そんなことより、毎日1ページずつ1カ月くらい、慰安婦問題を徹底検証したほうがいいんじゃない?」

「やらないよなー。本音はまちがいだと思ってないんだから」

「大多数の読者より、一部の“知識人”の世界を守ることが大事なんだろう」

「自分たちに都合の悪いことは最初から書かないよね」

「メディアの“書かない権利”か」

「書いてまちがっても、1回謝って終わり。その後はいっさい触れない」

「しょせん真実の追究より、自分たちの思想の啓蒙である」

「訂正・お詫びは “完全なる朝日”という幻想を守るためにのみ必要なんだ」

「そうやって、どんどん“朝日的知性”は古くなって、取り残されていく」

「彼らにとって慰安婦記事の否定は、“敗北宣言”のはずなんだよ」

「それなのに、相変わらずふてぶてしい人たちだ」

「他紙の訂正・お詫び記事はどうなってるんだろう?」

「むかしの人は、大手新聞の言論を100パーセント信じこんでいたが」

「新聞なんて、最低限の情報を整理するための道具と割りきっていい」

「すくなくとも若い世代にとって、(大手紙とNHKの報道は信用できて、スポーツ紙や週刊誌やインターネット記事は信用できないという)情報の序列はもうない」

「尊重するにしても、情報価値というより、経済的価値なんだろう」

「メディアの見方・考え方を鵜呑みにしないようにしよう」

「なるべく多くの情報を集めて、取捨選択するのは自分しかない」

というようになるでしょうか。

仮タイトル『朝日新聞「訂正・お詫び」記事を読み解く』。

本書企画のテーマは、次のような展開が考えられます。

1、朝日の「訂正・お詫び」記事の実例、その分析(つかみ)
2、なぜ、訂正・お詫びしなければならないのか。“朝日的なもの”の特異性(本題)
3、メディアというものは、基本的に「偏向」である(結論)

先生のご意見をお聞かせください。

私は「朝日新聞だけが悪いんですかねえ。」とだけ返事をした。すると、

「本書で対象にするのは、既存のメディアすべてです。
ただし朝日新聞はその代表、NHKとともに日本メディアの最高権威(最高権力)です。
「悪さ」の度合いの問題ではなく、存在の大きさを見過ごすことができません。
産経新聞毎日新聞が偏向していても、朝日新聞の立場とは違うのではないかと。
くだんのSAPIO記事の最後にある
「自社に都合の悪い異論を排除し、多様な議論を拒むのはファシズムだ」
という言葉が重要だと思います。
個人的には、新聞が「絶対的正義」「完全なる真実」の体現者であるとは考えて いません。
そうである必要もないと思います。
価値観は人それぞれ、「万人にとっての正義、真実」といえるものは存在しないと思います。
新聞は集団でも、取材・執筆をしている記者や論者は個人です。
書いているのは個々の人間です。思いこみ、まちがい・カンちがいはあって当然 です。
ところが朝日新聞は、最大の言論機関でありながら、多様性を認めていないのです。
個人の思いこみは、集団の偏向と合致し、集約されます。
組織内の異論も認められていません。
戦前の朝日新聞は、もっとも政府寄りの大本営発表紙でしたが、戦後は大きく反対側に振りました。
それで平和志向、反軍国主義志向の国民情緒にぴったりと合い、大新聞になりました。
すぐに白黒をつけたがる人、左右を分けたがる人たちもそうですが、なによりマジョリティにべったりつく人たちのことをどうも信用できません。
また戦争が始まって、国民がその戦争を支持したら、そういう新聞は政府支持に なるでしょう。
最大の権威とは、最大の既得権益でもあります。
朝日新聞はこの立場を手放したくないのだと思います(そりゃそうですね)。
「私たちはこういう考え方なんです。異論があるのは認めます」という謙虚さはありません。
権威を守るために、「私たちだけが正しい」と言いつづけなければいけないのかもしれません。
ところが、昨今の国民の情緒の流れは、自分たちに分が悪い。
この危機感が、慰安婦記事の修正、「訂正・お詫び」記事を書かせているのではないでしょうか。
つまり、個々の記者の正義、真実にのっとったものでも、誠意によるものでもなく、しょせんは「正しい自分」を守りたいだけなのではないかと。」

 と言ってきた。どうも自分が考えていることを言っているだけだし、中身は陳腐だし、書籍としての方向性がつかめない。会社所属の編集者のメールはたいてい下に署名(会社住所、電話番号)などがあるのだがこの人のはない。それで、電話で話したいので教えてください、とメールした。まともな編集者なら、いえこちらからおかけしますと言うところだが、全角で教えてきたから電話した。
 祥伝社には、小島政二郎伝を書いた山田幸伯さんがいるのでその話をしたら「今でもいますよ」などと言っていた。私が「まあ右翼本ってのは売れるんだけど」と言うと、「右翼本になるんですか」と言う。私が、大江健三郎朝日新聞と仲悪いですね、と言うと、あっそうなんですか、と言っていて、全然知らないようであった。いや本多勝一が大江批判を書いたから、と言うと、本多勝一は大学時代によく読みました、まわりがみんな読んでいるので、と言う。私の時には本多を読む者などいなかったから、えっ結構年なんですかと訊いたら、まあそうですと言う。あとで調べたら51歳だったが、早稲田だというから、早稲田ではホンカツを読むやつが多いのか、と思った。
 「私の本は読んだんですか」と訊く。昔のように、著作を全部読んで依頼してくるなどという期待はしない。「『なぜ悪人を殺してはいけないのか』とか・・・」と言う。それからまた少し話して、どうも方向性がはっきりしないので、「まあ私の小説も読んで(ほしい)」と言うと、突如ゲラゲラ笑いだして、「ノンフィクションの企画を立てるのに小説を読むなんて」と言うから、私は少し唖然とした。著書の執筆というのはある程度深い信頼がないとできない上、私の小説は私小説が多い。なんだこいつは、と思い、じゃあまた何かあったら、と言って電話を切った。
 そのあと名前で検索をかけたら、自分が著作を手がけた上野玲とかいうライターの男を攻撃して、上野さんが改心するまでは、などと言っているのを発見した。自分が手がけた本についてこんなことを言うのは、小説は読まなくていいとかいう心がけでやってるからだよな、と思った。
小谷野敦