沓掛良彦先生から、エラスムス『痴愚神礼讃』(中公文庫)をお贈りいただいた。著者謹呈のところに、沓掛先生お手製のチラシが入っているが、中央公論新社はこういうのを入れて発送してくれるのであろうか。あとがきを見ると、大出晁(1926-2005)の『痴愚礼讃』(慶大出版会、2004)が、初のラテン語原典からの訳とうたいつつ誤訳や人名の間違いなどがたくさんあるので自らまともなラテン語からの訳を行ったとある。大出訳を見てみると、なるほど索引に「オデュッセウス」と「オディッセー」が同居しているし、本文中には「ユリシーズ」もある。
この大出という人はラテン語の専門家ではなく哲学研究者で、これまでラテン語を訳したのはデカルトだけだとあるが、古典文学にも疎いらしい。「あとがき」を見ると、「晩年」になってラテン語を教えるはめになった、とあるが、「晩年」は死んだあとで使う言葉である。さらに、清水純一の「慰霊」に本書をささげるとあり、校閲もしっかりしていないらしい。
しかし、それまでフランス語訳からの重訳である渡辺一夫訳などが流通していたというのも、沓掛先生には悪いが『痴愚神礼讃』というのが、面白くないからである。知っての通りこれは16世紀はじめのカトリック教会の腐敗を批判・風刺した書だが、風刺というのは偉いと思われているものに対してなされてこそ面白いので、現代においては、当時のカトリックとローマ法王庁は腐敗していたというのは繰り返し教えられることだからである。たとえば、1940年頃に竹山道雄がナチスを批判した文章や、1950年頃に林達夫がスターリンを批判した文章やら、1980年頃に北朝鮮を批判した文章やらを読んでも、今では少数の人を除いて、ナチスやスターリンや北朝鮮がすばらしいと思っている人はいないのだから、別に面白くはないのである。
ところで大出晁という人は、本名は大江晁であるらしいが、父は大出である。さらに母の旧姓は小出であるらしく、結婚式では「大出家、小出家」ということになったのか。なぜ大江になったかは不明。いや、翻訳の質とは関係ない。言語学者・野本和幸が書いた大出の追悼文には「デヴュー」という誤記がある。http://ci.nii.ac.jp/els/110006608507.pdf?id=ART0008577360&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1390699799&cp=