1995年4月16日の読売新聞の連載記事[戦後50年にっぽんの軌跡](62)作家の死 太宰・三島・川端」に、「谷崎潤一郎、若き安部公房大江健三郎もさかんに書き、社会への影響力、売れ行きともに頂点をきわめようとしていた七〇年代初頭。「それは日本に文学が健在だった最後の時代。ところが三島、川端の死で、時代は切って落とされた」と、柄谷は断言する。」
 とあるのだが、「切って落とされた」とはどういう意味か。一般には「幕が切って落とされた」は「始まった」を意味する比喩表現である。しかし、ここはむろんそうではない。「切って落とされた」単独では、何も意味しない。柄谷はこういうおかしな日本語は使わない人だから、記者の尾崎真理子が捏造した表現か。
 読売新聞編集局編『ノーベル賞10人の日本人』(中公新書ラクレ)で川端康成の項を書いているやはり読売記者の山内則史も、しかし、この部分をそのまま引用している。大新聞の代表的文藝記者二人が「切って落とされた」を変だと思わないあたりが、何かの末路を示している気がする、というのは言い過ぎだろうか(新聞的表現にしてみました)。少なくとも由里幸子ならこの表現は通さないと思う。
 また同じ本の、大江健三郎のところは尾崎真理子が書いているが、ノーベル文学賞を「オランダ、カナダやオーストラリア」で受賞者がいないと書いている。カナダは今年とったが、オーストラリアは73年にパトリック・ホワイトがとっている。