車谷長吉の変名

車谷長吉癲狂院日乗』では幾人かの人の名が「よ氏」「り氏」などと変名にされている。この処置は高橋順子氏がやったことである。しかし「も氏」については、翻訳書の題名が書かれているので、すぐ高山芳樹氏であることが分かった。

『文士の魂・文士の生魑魅』(新潮文庫)を見ると、最初のほうの「伝記小説」というのが、98年10月の『波』に、「意地っ張り文学誌」の第三回として書いたものであることが分かる。そこでは、最初の作品集『鹽壺の匙』を出した1992年、神田小川町の酒亭「円居」で、歌人の持田鋼一郎(1942- )、筑摩書房校閲部の高山芳樹と酒宴を持ち、そこで持田が、「作家は書くことがなくなると伝記小説を書いたりし始める。高井有一立原正秋の伝記を書いたりしている」(大意)と言ったのを書かれたので、「よ氏」と記されている高山が絶交状を送ってきたというのだが、私は高井有一の『立原正秋』は名著でしかも代表作だと思っている。それに言ったのは持田なんだから、高山が絶交してくる理由はよく分からない。あと『金輪際』に入っている「白黒忌」というのも、その「よ氏」がモデルらしく、見せたら、発表しないでくれと言われたというが、それはポルノ映画に出たという女の話で、映画は「看護婦白黒日記」というのだが、そんな映画は実在しないから題名は変えてあるのだろう。

 あと「り氏」は、名作「抜髪」に関係あるらしいが、「抜髪」はどう見たって車谷自身が母親から罵られている話で、「り氏」がどう関係しているのかは分からないが、『新潮』編集部で相談したら載ることになったそうである。り氏というのは鈴木力という人で、りきさんと言われていたそうだ。

小谷野敦