際もの小説の今昔

 久米正雄は、関東大震災のあと、「震災小説」を書こうとして、途中でやめにしたのを「際物」と題して『随筆』の創刊号に載せている。まあここで大地震が起きてそれから事件になる、といったところだ、という終わり方で、筒井康隆が「稲荷の紋三郎」でやった終わり方である。「際物」というのは、そういう風に軽蔑的な意味で使われた。

 第二次大戦となると、国民全部が巻き込まれたものだから、戦争小説を書くのは「際物」ではなかった。際物小説をたくさん書いたのは三島由紀夫で、光クラブ事件で『青の時代』、殺人事件で『愛の渇き』、放火事件で『金閣寺』、労働争議で『絹と明察』、都知事選で『宴のあと』という具合で、これでは事件があると小説を書く作家と思われてしまうと手紙で自嘲している。

 谷崎潤一郎は、戦時中に『細雪』の連載を始めた時は、戦時体制に貢献するところがないというので差し止められたが、戦後最後の部分を連載しようとしたら、今度は、戦後の民主平和日本の建設に貢献しないというので『中央公論』ではなく『婦人公論』に連載させられた。

 しかし2011年の東北地震のあとは、あちこちで、震災小説を書けーかけーという声がやかましく、こういうことは阪神地震の時にもなかった、新現象である。それだけ、文学の自立性を信じる人がいなくなり、文学が社会のはしためだと思われるようになったということだ。