歴史小説の進化

 ようやく、林房雄の『青年』を読んだ。若いころ、小林秀雄が絶賛しているのを見て、へええいっぺん読んでみるかなと思いつつ、今日に至ってしまった。林房雄といえば、今では『大東亜戦争肯定論』で有名だが、若いころは左翼作家で、投獄されている最中にこの小説の腹案を得て、出獄して書き始めたのである。いわゆる四か国艦隊による下関砲撃事件と、ロンドン留学から帰り、攘夷の不可能を悟った志道聞多(ぶんたとルビがある、井上馨)と伊藤俊輔(博文)が、戦をやめさせようと奔走する話である。『中央公論』に連載され、昭和9年刊行。
 彼らを客観的に見る人物としてアーネスト・サトウが配され、日本を東洋の野蛮国とみる他の西洋人らと、その古い藝術文化のすばらしさ、西洋の新しい文明を摂取する早さなどを説いている。今から見れば、林はこれは獄中で「転向」したのであり、だからプロレタリア作家からは批判され、プロ派ではない『文學界』に拠る小林や川端康成から、そのみずみずしい青年の描きぶりを称賛されたのである。
 むしろ主人公は聞多である。しかし、明治維新後に薄汚い政治家になってしまった井上馨とは思えない節がある。林は続いて「壮年」を書き、「老年」まで行く予定だったが、「壮年」の途中で筆を擱いている。
 戦後も林は、鎌倉文士の一人として、『息子の結婚』とか『西郷隆盛』を書いたが、今ではほとんど読まれなくなった。伝記も一つもない。『青年』は戦後も読まれ、角川文庫に入っていたが、そのうちなくなり、1986年に徳間文庫で「若き日の伊藤博文井上馨」の副題をつけて出たが、それも品切れである。小林は、明治以後の古典として残るだろうと言ったが、残らなかった。
 なるほど今読むと、どうしたって司馬遼太郎を読んだ目からは、斬新とは言えない。歴史小説というのは、講談から進化したみたいな形で、吉川英治山岡荘八、司馬、海音寺といったあたりを生み出して、直木三十五などもまるで読まれなくなった。池宮彰一郎の『島津奔る』が司馬のまねだと言うので絶版になったが、関ヶ原から島津が逃げ出す場面を鮮やかに描いたのは、直木の『関ヶ原』である。しかし司馬から後は、どうもこうした歴史小説の進歩は止まったようで、津本陽などがんばったが、司馬には及んでいない。
 してみると、歴史小説というのは、クラシック音楽の演奏とか、歌舞伎とかそういうものに似ていて、ある程度まで完成されてしまうと、さて今から新しい信長を描くとかいうことは難しくなるのである。(ああ近代文学研究者よ、林房雄の伝記まで私に書かせようというのか)。

青年―若き日の伊藤博文・井上馨〈下〉 (徳間文庫)

青年―若き日の伊藤博文・井上馨〈下〉 (徳間文庫)