全共闘世代のバカ左翼・黒古一夫

 別に「全共闘世代」といわれる世代がみなバカなわけではないのだが、「全共闘世代的意識」なるものが実に愚劣な日本文化のクズであることはもはや言うまでもない。
http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/m/200808
 これは黒古一夫という筑波大学教授(元は図書館情報大学教授、統合により筑波大教授)だが、まさにそのようなクズの一人である。栗原さんはもちろん、問題になった作品をみな読んで書いている。『黒い雨』について自分が書いたものが参照されなかったのが不満なようで、それはお気の毒というしかないが、この書き方ではまるで栗原さんが豊田清史の肩でも持っているようである。栗原さんは豊田と相馬正一の論争を紹介しつつ、できるだけ客観的に記述しているのだ。だいいち、『重松日記』が公刊された2001年以後は、誰もがこれと『黒い雨』を比較して自分で判断できるようになっているのだから、黒古がガタガタ言う筋あいはない。
 ところで私は三浦綾子の『氷点』は、殺人犯の娘が殺人犯と同じ罪を背負っているかのごとくに書いた「差別小説」だと前から告発しているのだが、唯一の『三浦綾子論』の著者である黒古に、この点について意見を聞きたいところである。
 コメントしてしまったが、存命の作家には取材せよというのもおかしな話で、中には所在不明の人もいるし、彼らは作家なのだから、たとえば立松和平なら自分でいくらでも弁明の機会はあろう。「例え断られルようなことがあったとしても」って、この「ル」は何なのか。この人のブログは誤字だらけである。まあ大学の仕事が忙しくて推敲もできないのかもしれない。

立松和平の『光の雨』事件についても、この小説の根幹をなす「連合赤軍事件・問題」には一切触れず、もっぱらどのようにこの「盗作事件」が処理されたのかに費やされており、事件が沈静化した後立松が全力を投入して書いた『光の雨』について、「盗作」が云々された「すばる」誌連載の作品とどう違うのかの検証さえ行わず、スキャンダルとしてしか扱っていないという、「文学」と無縁の説明になっている。

 こうなると笑止千万と言わざるをえない。いったい、立松の「盗作疑惑」を検証するのに、なぜ連合赤軍事件など論じなければならないのか。これでは、『源氏物語』を論じている人に、なぜ藤原道長専制君主ぶりを論じないのかと言っているようなものだ。「全力を投入して書いた」というのは、単なる黒古の身びいきでしかない。私見を言えば、『光の雨』は全共闘世代にしか共感を得られない作品である。
 「このような本を出すということは、散り方によっては作家生命を脅かすことだってあるだろう。」
 「散り方」という言葉は、初めて見た。「散り方」といえば、散華とか、「華々しく散った」とか、そういう風に使うものだ。まともな日本語を使うこともできない三文文藝評論家だ。
 しかも、小檜山博の事件は新聞が取り上げたものであって、せいぜい数千部出るだけの、読書家しか読まない本が、数千万人が読む新聞以上の影響力を持つなどということはありえない。バカも休み休み言うがいい。
 「栗原のフォロー」。要するに黒古は、自分が親しくしている作家連について、栗原さんの「フォロー」が足りないと言っているだけなのだ。

僕の知る戦後文学の巨人による「盗作」問題(多くの文壇関係者には周知のこと)について1行も触れていないのも、ちょっと腑に落ちないことである。

 知らない。私も栗原さんも「文壇関係者」じゃないし。黒古は文壇関係者らしいが、腑に落ちないって、知らないのだよ。それからそういう厭味な書き方をせずに、誰だか書けよ。戦後文学の巨人って大西巨人
 この人の「文学」という語の使い方も甚だ不快な、いかにもひと昔前の、文学研究を科学ではなくて神聖なる行為のように考えていた連中(今でもいるが)のそれである。もっともこの人は、「文学」ではなくて「政治」、というか「バカ左翼的主張」を文学の名の下にしたいだけとしか思えないのだがね。かといってこういう連中がいずれは消えていなくなるわけではなくて、日本文学協会とか日本近代文学会あたりには、この手の教授に媚びて左翼論文を書いては出世をもくろんでいる偽善的な若い学者がごろごろいるんだから、やだねえ。
 (小谷野敦