続きである。鈴木氏の挙げたカントの定義だが、そもそも何が藝術で何がそうでないかといったことは、定義できるものではない。それは、時代によって変わるし、人によっても変わる。
 鈴木氏の仮想敵は柄谷らしいが、柄谷『日本近代文学の起原』は私も『評論家入門』で一章をさいて批判しているし、未だに柄谷崇拝病にとりつかれている者はいるだろうが、果してまともな日本近代文学の研究者が信奉しているかどうか。ただ存外に鈴木氏の著書は柄谷のそれに似ていて、というのは理論から演繹してくる手つきが疑わしいのである。文藝作品というのは、理論を樹てたからといってその通りに欠けるといったものではない。ただし、私小説を純文学だとする論のみが、作品に直結する。
 鈴木氏の著書に「概念と語彙は違う」とあったので、それが分かっていたのかと思った。私が、『水滸伝』などを李卓吾が藝術だとした、と言った時に鈴木氏は、どこでそんなことを言ったかとからんできたが、「藝術」というのが、高尚なもの、見るべきもの、という意味であるのは自明である。どうも私には、鈴木氏というのは「語彙」に拘泥する人だという気がする。
 さて『「日本文学」の成立』95pからは、はなはだ理解しにくいことが書かれている。「第二次大戦後、文藝雑誌が「純文学」雑誌、「中間小説」雑誌の二種に分かれ、それ以外の文藝が大衆小説(文学)と呼ばれた」というのだが、戦前であれば、純文学雑誌は『新潮』『新小説』『若草』『文學界』『文藝』があり、大衆文藝雑誌として『文藝春秋オール読物号』『日の出』『文章倶楽部』などがあり、『文章倶楽部』は元は純文学雑誌だったが、昭和に入って大衆文藝誌に変わっている。ほか純文学作品は『中央公論』『改造』のような総合雑誌に載った。ほか大衆小説の発表の場として『サンデー毎日』があった。
 戦後昭和22年に創刊された『小説新潮』が、「中間小説」の語を広めたわけで、以後今日まで、『小説公園』『小説現代』から、最近の『小説すばる』『小説ポスト』まで、中間小説誌は「小説」の語を冠する。もっとも、それ以外の大衆文学というのが何のことか、というのが今一つ分からない。特に「歴史小説」という語の使い方が分からない。しかしこれについては、当時の文学者たちも混乱している。昭和三年八月の「大衆文学合評会」(『新潮』久米、中村、白井、秋聲、三上)などその最たるもので、久米は、大衆小説は馬琴の、通俗小説は京伝の後継者だなどと言っているが、鴎外や芥川の歴史小説がどう位置づけられるのか、全然分からない。
 鈴木氏は、戦後海音寺潮五郎が『平将門』を書いて、大衆小説から歴史小説へ脱皮した、などと書いているが、それなら戦前であっても、鷲尾雨工の『吉野朝太平記』も、直木の『源九郎義経』や『関ヶ原』があって、子母沢寛は『勝海舟』を戦前から連載している。しかし、純文学論争の本当の始め人は大岡昇平であり、大岡は民衆史観だから、海音寺の将門など認めず、自分で「将門記」を書いている。
 菊池寛も歴史ものを書いたが、そのためにいくらか通俗呼ばわりされることがあった。ただ大岡は、水上勉松本清張が、文壇小説よりも面白くて社会性があると世間で言われ、売れていたので嫉妬もあって批判したのである。これは私は『リアリズムの擁護』でも『現代文学論争』でも扱っている。
 鈴木氏の記述は、全体として間違っているわけではないのだが、果して戦後の『オール読物』が、大衆小説を排除していたか、というとかなり疑問で、それはそれで具体的に作品や作家を挙げて記述し論証してもらいたいのであるが、それはどこか別のところで書いてあるのだろうか。なお私周辺では周知のことだが、戦前、『人妻椿』という通俗小説を書いて人気作家となった小島政二郎は、のち私小説『甘肌』(1954)で、大衆小説を書いて堕落した、と書いて、直木賞作家の田岡典夫から、それは通俗小説の間違いではないか、と抗議を受けている。
 もし鈴木氏が知らないのであれば、「直木賞のすべて」サイトにあるブログ
http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/ 
 をぜひちらりとでいいからお読みいただきたい。これは、そういった問題についての知識の宝庫であり、いわゆる研究者のそれよりよほどレベルの高いもので、私もずいぶん恩恵をこうむっている。

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http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/index.html

さらにくっついてきた。

「純文学」という語は、明治期に登場して以来、1933年ころまでは、広義の「文学」に対する語、「哲・史・文」の「文」、狭義の「文学」を意味し、それ以外の意味で用いられたことはありませんでした。

 1933年というのはずいぶん下るものだ。大正三年一月三日の、中条百合子の日記に、こうあるのを、私は近ごろ発見した。

文学は純文学として価値のあるものがいいかそれとも多方面から批難のないも のがいいのか、大よそは分ってゐるが考えなければならない。

 別に揚げ足をとろうというのではない。
 なお、明治期から、高いもの低いものといった言い方があったことは、前に触れたとおり、谷崎が書いているが、これについて鈴木氏はどこで触れたのか、いま見つからない。
 その後、私はフランクリンとかギボンの話をしているのに、鈴木氏は、古墳から出てきた鉄剣の文字などという遠いところへ話を持っていってしまう。これでは、話にならない。またもちろん鈴木氏もご存知の通り、シナでは「文学」といえば、漢文漢詩で、『論語』といった儒学の書物も含んでいた。
 また最初に書いた通り、日本文学史に入っている漢文は、訓読されたものである。これについて、鈴木氏は答えていない。また、日本文学史もまた、仏教の経典を扱うことは、基本的にない。聖徳太子の『三経義疏』や、空海最澄、それから鎌倉仏教の創設者であれ、『正法眼蔵』を国文科で扱うということはない。ただ日本の文学年表には、時おり入ってはいるが、文学史はそれらを扱わない。
 馬琴は西鶴に触れている。しかし、一般に広く読まれてはいなかった。では明治期における、淡島寒月による西鶴の再発見と言われているものは何なのか。近松についても、世話浄瑠璃を中心とした再評価が起こったことは事実である。「曽根崎心中」などは、ほとんど再演されなかったのである。だいたい「再発見」というのは、一般的には、誰も知らずにいたものを発見したという意味ではなくて、一部の人しか知らなかったものが広く知られるようになることをさすものである。近松が絶えず引用されていたというのは、どの論文に書いてありますか。

自分が、どういう制度のなかで仕事しているのか、それに従っているのか、逆らっているのか、どのように従い、また逆らっているのかさえ、自覚せずにいる人があまりに多い。

 こういった、いくらか「左翼」的なもの言いに、私はあまり共感しない。鈴木氏は、文学研究という制度について、どう考えているのだろうか。
 どこが疑わしいのか、といえば、鈴木氏が、あまり作品に則して論じないところである。ただ、私は、鈴木氏が読んでいないのだとは思っていない。たとえば「小新聞の連載小説を商売ものと決めつける差別ですが、これは明治中期ころまでのことでしょう。」とあるが、その意味がいま一つ分からないながら、久米正雄(いつも久米で申し訳ないが)が初めて『時事新報』に「蛍草」を連載した際は、新聞に書くなら通俗ものだから、堕落するからやめろと芥川などが反対し、菊池が押し切って連載させている。
 鈴木氏は、果して自分で作品を読んで、これは純文学だ、これは通俗だ、ないし、これは通俗だがいくらか見るところがある、という判断をしないのか、といえば、するであろうし、小田切との論争ではちゃんとしている。
 私が「演繹的」と言ったのは、そういった作品から帰納する論じ方をしていないということだ。
 新興藝術派の一部が「純文学」という語を用いたといっても、その後定着した言い方とは違っているわけで、何やら鈴木氏は、シェイクスピアが『ハムレット』を書く前に『原ハムレット』と呼ばれる作品があったからといって、『ハムレット』の作者はシェイクスピアではない、と主張しているようなものとしか思われない。
 
 ところで、私は鈴木氏の言うことすべてに反対だというわけではない。たとえば、「言文一致」の意義を否定するあたりは、同意するのだが、ちょっと私とは方向性が違うようである。なかんずく、中島一夫が言ったように、なぜそこですが秀実を無視するのか、対象とする論が妙に偏っているのは気になるのである。
 ところで、筒井康隆星新一直木賞をとれなかったが、候補になっただけましである。山村美紗など候補にもならなかった。もちろんほかに、候補にならない作家はいる。コバルトシリーズの作家などである。ところで鈴木氏は『涼宮ハルヒ』なんか読んでいるだろうか。
 そういえば、仏教が「活きた宗教」だと鈴木氏は言うが、では『古事記』や『日本書紀』は活きた宗教なのだろうか。当然ながら、天皇制国家であった明治憲法下では、これらを文学として研究することには掣肘が加えられ、戦後になって解放された。従って、『古事記』『日本書紀』については、近代になってから、それを信仰する人(国家を含め)としない人とがいて、戦後はしない人によって学問的研究の対象となったのだから、何ら特殊だということは言えない。
 広義の意味で「文学」をとらえるのは、東大比較文学に伝統として残っていると鈴木氏は書いているが、それについて芳賀先生は「フランス流に」広義にとった、と言っているのだが、それは間違いなのか、鈴木氏はこの「フランス流に」というのをなぜか抜かしている。今度東大の助教になった吉澤保という人は、仏文科でコンディヤックで博士号をとっているのだが、これは紛れもなく広義の文学である。それは東大仏文が特殊で、フランスではありえないことなのだろうか。 
 まあ、日本近代文学が、柳田國男とか折口信夫とかを文学者に組み入れているのはまったく奇観ではあるが、同時に東大倫理学というのもおかしなところで、能楽からマックス・ヴェーバーまで研究対象にしてしまう。あれは和辻哲郎が研究したものならいい、という不思議な学科である。