夜よゆるやかに歩め

 「政治少年死す」も入っている『大江健三郎全小説』が出るそうだが、どういうわけか、『青年の汚名』が入っていない。あと大江最大の封印作『夜よゆるやかに歩め』は当然のように入っていない。
 これは1959年、デビューしたての大江が『婦人公論』に一年間連載した「通俗恋愛小説」で、中央公論社から出たあと、講談社ロマン・ブックスで1963年に出ているが、その後は封印された。
 主人公の康男は大学の仏文科の学生で、新進音楽家の従兄がおり、その妻で女優の矢代節子というのがヒロインである。節子は30歳になる。従兄がパリへ行ってしまったあと、康男と節子は次第に親しくなって、とうとう関係を結んでしまい、節子は妊娠するのだが、パリの従兄とは離婚して節子と結婚し、子供を育てようと康男が明るく決意したあとで、節子が妊娠中絶してしまい、康男は怒って関係を断つ。
 従兄にはSという愛人がいたが、節子のほうが先に浮気をした、と聞く。彼らがよく会う酒場は「フォスタス」といい、クリストファー・マーロウの「ファウスト博士」からとった
 lent,lent currite, noctis equi!
という詩句が壁に掲げられている。「夜の馬よゆるやかに歩め」というもので、題名はここからとられている。あとこの酒場で出会った、米兵との間の子供を一人で育てている「香港生まれ」と呼ばれる女が出てくる。
 節子は、ラシーヌの「フェードル」を翻案したテレビ劇で脚光を浴びるが、そこで共演した男優とともに自動車事故を起こして死んでしまう。
 あまり、へえ大江がこんな通俗小説を書いたのかという感じはなく、いつもの大江調である。
 この節子のモデルは例によって岸田衿子で、妹の今日子と混ぜこぜにしたのだろうし、従兄のほうは、いつもの伊丹十三と、岸田衿子の夫だった谷川俊太郎を混ぜたものだろう。
 すると、『個人的な体験』の火見子の原型がこの矢代節子ということになり、果たして大江と岸田衿子の間にこういう恋愛関係があったのかなかったのか、気になるところで、大江研究者はすべからく読むべき小説だといえるだろう。