日本では国立大学が偉い。しかし西洋ではそうではない。米国の有力大学はみな私立である。国立というのはなくて州立大学はあって、カナダではブリティッシュ・コロンビアトロントも州立である。英国も、オックスフォードやケンブリッジは私立である。ロンドン大学などは、新しい公立である。フランスやドイツは何かややこしいが、日本の国立大学で神学部だの仏教学部だの神道学部だのが、作れるわけがないのである。
 久米邦武が「神道は祭天の古俗」を書いて筆禍をこうむったといっても、神道家の中には、神道を宗教にされてしまうと、政教分離でやりにくくなるというので歓迎した者もあったのである。
 だから、そんな日本と、西洋とを比べても意味ないのである。
 『道化の宿命』一冊を残して夭逝した英文学者・中橋一夫の「中間小説という神話」(『文庫』1955年7月)を見たら、中橋も、西洋には純文学・大衆小説という区別はない、と書いている。
 細かく言うと、推理小説は明らかに大衆ものとされていて、ホームズやリュパン、メグレやクリスティー、あるいは現代ならスティーヴン・キングとか、みな大衆ものであることは言うまでもない。
 厄介なのはサガンなどである。マーガレット・ミッチェルとかダフネ・デュ=モーリアとかである。西洋人は、しばしばこれらを通俗とするが、日本のように、文藝雑誌と中間小説誌といったもの、芥川賞直木賞といったものがない、というだけで、文学の批評家は、暗々裡に区別しているのである。SFは直木賞をとれないというが、ノーベル賞をとったSF作家だっていない。ヴォネガットだってとってはいない。
 ノーベル賞委員会には、左翼的傾向、反カトリック的傾向もあるが、かつては、歴史ものに甘い傾向があり、それでシェンキェヴィッチやパール・バックも受賞した。しかし恋愛系通俗には厳しく、サマセット・モームが問題にされず、チャーチルがとったのもそのせい、ヘミングウェイなど、『老人と海』を書いたから上げたとはっきり言われていて、『武器よさらば』や『誰がために鐘は鳴る』は通俗だよと暗に言われている。
 サリンジャーも問題外、グレアム・グリーンモラヴィアも、もしかすると通俗と見られたのかもしれない。戦後の英国女性作家には、曽野綾子風のものが多く、いくら人気があっても、アイリス・マードックとか、ドラブルとか、日本で言う中間小説的な扱いではあるまいか。しかしアニタブルックナーとなると、純然たる通俗小説で、これはむしろ日本人の方が、知らずに読んでいるのである。
 はっきり言わずに差別するあたりが、西洋人らしいと言えようか。

 そういえば娘が書いた『安部公房伝』を立ち見してきたが、やっぱりきれいごとしか書いていない。愛人のところで死んだはずだが…。

 『週刊文春』で岸田秀先生が、元気の出る音楽として「愛国行進曲」をあげて、私は右翼ではないが、と断っているのを見て、ご安心ください、岸田先生にいかなる形でも「思想」があるなどとは思っておりませんから、と内心に思ったことであった。

 

小谷野敦