井上靖『北の海』を読んで驚く

『北の海』は、井上靖の自伝小説で、「しろばんば」「夏草冬濤」に続く、沼津の中学校を出て浪人していた半年の、柔道三昧の日々を描いている。翌年、四高の柔道部に入るよう誘われて金沢の四高を訪ねるのが表題の意味で、最後は神戸から両親のいる台湾へ向けての船に乗る。実に不思議な小説で、主人公つまり井上靖は「伊上洪作」なのだが、他の男たちはみな姓で「遠山」とか「木部」とか呼ばれているのに、洪作だけ「洪作」と呼ばれて特別扱いされている。さらに洪作を好きだというれい子もただ「れい子」と呼ばれている。

 『暗夜行路』について紅野敏郎が「時任謙作一人まかり通る小説」と評したが、これはまったく「伊上洪作ひとりまかり通る」小説で、しかも『暗夜行路』は後半はフィクションだがこちらは自伝的小説だ。洪作は、呆れるほどに誰からも好かれる。中年者からも同年輩の青年でも、男でも女でも、洪作を本気で嫌っている者はいないし、いじめる者もいない。よほど「愛されキャラ」だったのである。そしてそれを井上靖自身が、不思議なことだと思っていない。不思議といえば最後のほうで、台湾の母から来た手紙について、「まだ二、三通開封していない手紙がある」と書いてあるが、手紙というのは届いたらすぐ開封するものだろうに、不思議なことをする。

 私は『あすなろ物語』を読んだ時、なんだこのもて男小説は、と呆れたものだが、井上靖は、作家デビューしてからのすごい速度での文壇での出世も、要するに人々からよほど好かれたので、しかも川端康成のように、孤児として育ったから人と争えない性格になった、というような自己反省もない。川端は努力して「文壇の総理大臣」だったが、そのあと井上は、なるべくして「文壇の総理大臣」になっていた。普通に人はこの程度に人から好かれるものだろうと思って一生生きた人のような気がする。とてもこの人の真似は宮本輝などにはできないだろう、とつくづく感じ入るほかはない。

(追記)「北の海」の最後に、佐藤という医師が神戸で洪作を出迎えて、両親に頼まれて船の旅を同行するのだが、洪作が山の上で寝てしまったといった話を聞いて、「なるほど、噂に聞いた通りのいい坊ちゃんだ」と言い、洪作はむっとするのだが、これがまさに洪作の天真爛漫さと愛されキャラぶりを示唆している。だから著者も自覚はしているのだ。

 のち1988年に『孔子』が売れた時、『新潮』の千号記念号で大江、江藤、石原、開高の座談会があり、ああいうのは通俗じゃないかという話になり、井上靖にもいい純文学はあるというところから、石原が、直接井上にそう言ったら「ああいうのは売れません」と言ったという。このあたりが井上靖の天真爛漫たるところではないか。

小谷野敦