凍雲篩雪

秘密を他人に押し付けてはいけない
 一橋大学法科大学院で、ゲイの学生(A氏とする)が、好きな男子(B氏とする)に告白したら振られ、一週間後にB氏が仲間内のラインで、これ以上お前がゲイであることを隠しておけない、と言い、A氏は大学などにクラス替えや留年を申し出たが入れられず自殺、遺族が大学とB氏を提訴するという事件が起きた。
 私は、発端は二十年以上前だが、知り合いの女性からレズだと告白されて、そのあとでトラブルになったことがある。その経験から言うと、「他人に秘密を背負わせてはいけない」し、その結果他人が秘密を漏らしてもそれはやむをえないと考える。第一、言論の自由というものがある。別に同性愛に限らない。私はかつて、筆名で活動している某評論家から、一方的に実名を知らされ(封筒の裏に書いてあった)、それをばらしたといって非難されたことがあるが、私は「秘密にするから教えてくれ」と言ったわけではない。
 弁護士や医師など、職業的に知り得たことがらの守秘義務がある場合、人はそういう職業を自ら選んだのである。しかるに裁判員においては、一方的に選任されて守秘義務を負わされる。これは憲法違反なので、私が裁判員に任命され、辞退が認められなかったら、裁判で争うつもりである。
 なぜB氏がラインで明らかにしたかといえば、もし誰か共通の友達に話したら、それは広まり、いずれはA氏の耳に入るだろう。それくらいなら、最初から明かしたということをいっぺんに分かるようにしたというB氏の心理はよく分かる。
 B氏がゲイでないことくらいは見ていれば分かるだろうし、そうでない確率のほうが高いのだから、そういう結果になるのは分かっている。大学側の対応は別途問題にするとして、B氏に落ち度があるとは思えない。
 角岡伸彦『ふしぎな部落問題』(ちくま新書)は、部落差別はなくすべきものなのに、実際には、誰が部落出身かを隠蔽することに汲々とするというおかしな構造になっていることを指摘している。私もかつて、週刊誌報道を見て書いたことについて、誰が部落民か分かってしまう、と非難されたことがあるのだが、実際は私は知らなかったのである。
 同性愛もまた、差別をなくすつもりなら、より多くの人がカムアウトしていくべきなのに、クローゼットの状態が日本ではまだ多い。大学教授など、比較的安全な立場にある者が率先してカムアウトすべきだろうが、これに対しては、それは自己決定だという批判が予想される。
 二、カナダで、図書館から借りた本が六十七年後に返却されたという話が美談として報道されたことがあったが、これは美談ではあるまい。もっと早くに返すべきである。引っ越したなら、郵送するとかすれば良かったのだ。だが、これがカナダで美談にされたということは、カナダでも本を返さないのが悪事だとは必ずしも思われていないことを意味する。かつて川島武宜は『日本人の法意識』(岩波新書、一九六七)で、日本人は法に関して意識が西洋人ほど厳格でないとして、本を借りたらそれは借りた者のものも同然になる、と書いたが、どうも西洋でもそれほど厳格ではないようだ。
 もっとも、米国は乱訴社会と言われていて、日本ではあまり訴訟をするとうさんくさいやつと見られるが、果して米国では訴訟をする人間が白い眼で見られることがないかというとそれは疑わしい。川島がもう一つ実例としてあげているのは、ハワイ滞在中に、私立探偵が個人の敷地内に入り、見とがめられて逃げようとしたのをその家の青年が後ろからピストルで撃って殺したという事件があり、翌日の新聞に、探偵業について取り締まりを厳しくせよという社説が載ったので驚いたというものだ。これについては、川島の「銃器の取締り ハワイ便り1」(『法律時報』一九六五年八月)により詳しく書いてあるが、この青年はすぐ逮捕され、どろぼうだと思ったと供述しているという。新書ではそこはぼかしてある。この事件は今では、九二年にルイジアナ州バトンルージュで起きた日本人少年の射殺事件と照らし合わせて考えられるべきものだろう。これは法意識の問題というより、銃社会である米国の問題であり、侵入者もまた銃を持っている可能性が高いために、防衛のため日本の警官より低いハードルで銃を発射するといった問題であって、必ずしも川島の言うような敷地内侵入への法意識の問題ではなかろうと思う。
 またこの事件では、射殺した男は刑事では無罪になったが、民事では敗訴しており、ガンマニアで犬や猫を射殺していたことや、妻の前夫に、殺すと脅迫していたことが明らかになっており、ハワイの事件のその後がどうなったかは分からない。川島のあげた新聞社説にしても、それだけでアメリカ人の意識一般に還元することはできないだろう。
 川島のこの本は、一部では、日本の後進性を論じたものと受け取られていたが、必ずしもそうではないだろう。また米国では、裁判において、弁護士がちゃんと報酬どおりの仕事をしたかどうか、のほうを、学生は、真実が追及されたかどうかよりも評価する、といったことも書いてあったが、「砂上の法廷」という映画を観たら、それもどうかなと疑わしくなった(コートニー・ハント監督:キアヌ・リーブスレニー・ゼルウィガー)。いくら米国だって、真実が追及されたかどうか、ということは一般人は気にするのであって、法科大学院の学生はまた違った見方をするだろうが、それは日本でも同じことだ。どうもこれも、怪しい日本文化論にいくらか近いような気がしてきた。
 三、「選択的夫婦別姓制度」に賛成か反対か、という二項対立がまかり通っているのは困る。実際には高市早苗の、戸籍は従来通りで、通称を広く使用できるという案もあり、私はこれでいいと思う。高市と対立していた別姓論者の野田聖子が、自分は単に野田の家名を残したいという前近代的な意図に出ていたことも、私はくりかえし指摘してきたし、仮に別姓にしても、子供の姓でもめるカップルが出るだろうということも言っているが、議論はまったくなされていない。議論がちゃんとなされていないところで、人を賛成派だの反対派だのと、あたかも反対したら保守派であるかのように言うのは知的不道徳というものではあるまいか。
 四、中原清一郎という作家がいる。これは朝日新聞記者だった、『北帰行』で文藝賞を受賞した外岡秀俊の別名で、一九八六年十月に『未だ王化に染(したが)はず』という小説を中原名義で福武書店から刊行しており、のち小田光雄が、外岡の変名だと明らかにし、『文藝』編修長だった寺田博福武書店へ移り、外岡の原稿を預かって、天皇制批判の小説なので変名で出したのだろうと推定した。だが中原清一郎は、それより先の八六年一月『新潮』に「生命の一閃」という短編を発表していた。この短編は新聞社のカメラマンを主人公とした極めて優れたもので、今日まで見逃されてきたのが不思議である。だがこれで、小田の「中原清一郎」名義に関する推定は、少し訂正される必要が生じたと言えるだろう。