東上高志編著『校長の死と「日の丸・君が代」-「解放教育」の一掃のために』(部落問題研究所、1999)を図書館から借りてきて、びっくりした。1999年に、広島県世羅高校で、君が代斉唱をさせようとする教育委員会と、これに反対する労組の板挟みになって、石川校長が自殺し、それによって国旗国歌法が成立した。東上高志は同和教育の人で、『同和教育入門』で1964年に毎日出版文化賞を受賞している。それが「解放教育の一掃」とは、どういうことか。
 表紙に「その裏には部落解放同盟の教育介入と、解同日教組・同研・行政が一体化した「解放教育」の30年間にわたる偏向教育があった」とある。
 いうなれば「内ゲバ」である。だがこないだ見た、滝口明祥『井伏鱒二と「ちぐはぐ」な身体』(新曜社)のあとがきで、広島で高校時代を送った著者の、「天皇制が諸悪の根源であるかのように言う教師たち」に違和感を覚えたという記述は、これでやっと理解できたのである。私は滝口という人は右翼なのかと思っていた。 
 狭いようでも日本国内で何が起きているか分からないということである。実際、東上のこの本を、当時紹介した新聞はなかった。 
追記)教えてくれる人があって、東上の「部落問題研究所」は、共産党系で、解放同盟と対立関係にあることが分かった。道理で意味不明なわけだ。

校長の死と「日の丸・君が代」―「解放教育」の一掃のために

校長の死と「日の丸・君が代」―「解放教育」の一掃のために

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宮田毬栄の本を読んでいて、江藤淳中央公論社と疎遠だったことに気づいた。大江健三郎も、ノーベル賞受賞後に「和解」するまでは中公と疎遠だったが、これは『思想の科学天皇制特集事件などの影響があったのかなと思っていたら、宿敵・江藤もそうだったわけだ。
 中公に近かった文学者は、ここで宮田があげている、大岡昇平埴谷雄高日野啓三島尾敏雄のほか、何といっても丸谷才一山崎正和中嶋嶺雄らで、江藤が彼らをも攻撃したのは、そのゆえもあったかと思う。中上健次は何ゆえか江藤と親しくしていたが、中上も中公とは縁がない。江藤と中公の疎隔は、もしかすると庄司薫、当時福田章二が登場した時に江藤が徹底批判して沈黙せしめたこととも関係あるのであろうか。
 ところで宮田は、60歳を過ぎて誰にも相談せずに社を辞めた、とあるが、やはり中公内では困った人扱いだったのだろうか。『海』は宮田編集長時代に廃刊している。
 大岡昇平のところで、『海』の前編集長の高橋善郎からの引き継ぎに、大岡の「堺港攘夷始末」がなかったという。宮田は『海』に載せたがったが、大岡は高橋を信頼していて、『海』が廃刊になったため、『中央公論文藝特集』での連載になった。
 大岡は、高橋に問題があるのは分かっているが、高橋は旅先では目薬もさしてくれる、と言い、宮田は、「目薬をさすのは私には無理かもしれない、と私はその時思った。自分の目にだってうまく命中させられないのだから」。宮田のこういうところがたまらない。まず、高橋が問題があると宮田が思うなら、自分の言葉で書くべきであって、大岡に言わせるのが良くない。さらに目薬のところ、ユーモアのつもりだろうが嫌味だし、ドジっ子アピールである。
 美人の編集者や新聞記者によくあるタイプである。作家にはかわいがられ、増長するのである。
 島尾敏雄の章では、宮田と「Y」との確執のことが書かれている。安原顕であることは明らかだ。宮田は、安原がどれほど困った人間であるか、同じ職場にいないと分からないだろうと書いているが、私は月日がたったせいもあろうが(というかほかの人もそうだろうが)、今となっては、文章からも分かる。