昨日は、知人が病気で行けなくなったというので、武蔵野文化会館で行われるイタリアの歌劇団によるロッシーニの「チェネレントラ」を観聴きに行ったのだが、妻は仕事なのであとから来ることになり、私は吉祥寺からバスが出ているとも知らず、かつて住まっていた三鷹駅から北へ向ってずんずん歩いたらだいぶ遠くて、少し遅れてしまった。係員どもは、「遅れると立ち見になります」などと言っていて、一般的な演劇でも、十分ほど立たせられることがあるから、そんなものだろうと思って入ったのは、序曲が始まる十秒ほど前。ところが案内嬢は、いちばん後ろの、たまたま空いている席へ私を座らせて、本来の席へ案内してくれない。文句を言ったら、「遅れると案内できない」と言う。むかっとして、どうしたものかと、気の抜けた序曲を聴いていたら、序曲が終ったところで、さらに遅れた人々数人がどやどやと入ってきて、どうやら本当に立ち見させられるらしく、最後尾列の後ろにもたれるようにして立った。しかもそれが、第一幕が終るまで1時間45分かかるのだという。私に一番近いところで立っていたのは杖をついた60くらいの婦人で、ほどなく座り込み、その案内嬢が脇へ行って何か聞いていたが、また立ち上がった。
 私は怒り心頭に発して、案内嬢を呼び、その婦人を私がいま座っている席に座らせるよう言って、そのまま外へ出て、係員どもに文句を言った。普通演劇では、遅れて十分くらい待たせることはあるが、1時間45分も立たせるなんて聞いたことがない、これはどこの方針だ、と。すると係員どもは、カンパニーの意向ですが、オペラや音楽の場合はそういうことも、と言う。そりゃ、演奏会で最初の曲がラデツキー行進曲なら、終るまで待っていたってさしたることはないし、仮にチャイコフスキーのピアノ協奏曲だとしても35分もすれば終るのだ。1時間45分というのは非道だ、現に杖をついた老人が立たされているのだぞ、ひどいと思わないのかと散々罵って、武蔵野市に言うからな、と言って外へ出て妻を待った。ほどなく到着した妻は、クラシックはけっこうそういうところは厳しい、と言いつつ、中で立ち見していたようだが、私はロビーで、今となってはユーモアも空回りしがちな『どくとるマンボウ航海記』を読んでいたが、ようやくバカに長い一幕が終って出てくると、妻も、これは立ち見させるには長すぎると言っていた。
 だいたい、「チェネレントラ」などというのは軽喜劇であって、聴いた限りでは、後から客が入って行って興が削がれるというほどのものではない。私がオペラから遠ざかったのは、こういうお高く止まったところが嫌だからだ。

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一日三食カップ麺で300錠以上のサプリメントを呑み、嫌煙家で、売春全面肯定論者、変名でSM小説を書いているという噂もある三浦俊彦、いよいよおかしくなってきたか。昨年一月には『のぞき学原論』を刊行。盗撮で大学クビになった人もいるのに大丈夫か。12月には『多宇宙と輪廻転生』を刊行。
 論理学や数学をいじる人がオカルトになってしまうのは、昔からよくある現象だ。二十年ほど前、平山朝治という東大院生が『社会科学を超えて』という本を刊行し、帯には「浅田彰を超えると評される」とあったが、その中に、全ての人のこころは同じであると論理的に証明した箇所があった。なんでも背理法を用いて、人のこころが別々だとすると、他人のこころは理解できないことになり事実に反する、不可知論に陥る、とかいうのだが、論理が飛躍していて理解できなかった。私が知ったころは助手だったが、今は筑波大教授で、普通の本を書いているらしい。神の存在を数学で証明したとか言っていた同志社大学の落合仁司というのもいたし(落合恵美子夫)、なんか三浦さんの輪廻転生の証明も、平山さんに似ている気がするのだが…。
 (小谷野敦